くづはな   みしだかれて いろ あたらし  この山道やまみち を  きしひと あり
【作 者】 しゃく ちょう くう
【歌 意】
葛の花が踏みにじられて、鮮やかな色をにじませている。ああ、私ぐらいしか歩いている人はいないかと思っていたが、私より先にここを通っていった人がいるのだ。しかもほんの少し前に。
【語 釈】
○葛の花==「葛」 は、マメ科の多年草。つる性で、山野に生える。「花」 は、夏に開き、房状で紅紫色をしている。
○踏みしだかれて==踏みにじられて。
○色あたらし==色が新撰である。
【鑑 賞】
森閑とした山道に踏みにじられた葛の花がある。その色はなまなましくも鮮烈である。その鮮烈さが強烈に伝わってくる歌である。
花びらはそれ自体うるおいのある瑞々しいものであるが、踏まれて擦られて内部が露出した花びらは、痛ましいほどの鮮やかな色を示している。この鮮やかさ、そして、この目を覚めるような驚きが、この花を踏んでいった人の後姿を呼び覚ました。この呼び覚ましから、「私」 が、おそらく自分しかこの山道を歩いている人はいないだろうと無意識に思っていたことが分かる。
「私」だけではなかったのだ。このような、めったに人が通らないと思われる山道も人は通る。この発見には、「私」 がひとりであることに思い耽って今まで歩いてきたことが窺われる。
一人であることを思いつつ歩いてきた山道、そこに存在していた先を歩く人は、「私」 の物思いを破った人でもあるのだ。
葛の花の鮮烈さに加えて、土の匂い、足の感触まで伝わってくる優れた作品である。
【補 説】

この歌は、作者三十四歳の大正十年、壱岐に半年滞在した折の作品である。
大正十三年十月号の雑誌 「日光」 に発表され、大正十四年刊行の歌集 「海やまのあひだ」 に収録された。
高等学校の国語の教科書のもたびたび掲載される、迢空の代表歌である。
この歌を幼稚な歌であると批評した旧派の歌人武島羽衣は、
「心なく 山道ゆきし 人あらむ ふむしだかれぬ 白き葛花」
と添削してみせたが、添削歌が劣ることは言うまでもない。
なお、短歌に句読点をつけるのは、迢空独特の表記法である。

【作者略歴】
本名折口信夫。
明治二十年大阪府生まれ、昭和二十八年 (1953) 没、享年六十六歳。
国学院大学卒業。歌人として活躍する一方、国文学者としても独自の学風を築いた。
小説には 『死者の書』 (昭和十八年) がある。
(上智大学教授 小林 幸夫)