ぷら ぬす  かげを が まな ぶた に   しほいろさし なつ さりにけり
【作 者】 中村なかむら 憲吉けんきち
【歌 意】
プラタナスの木陰を歩いてゆく乙女の瞼にいきいきと血潮の色がさして、ああ、夏がやって来たことだ。
【語 釈】
○篠懸樹==プラタナス。スズカケノキともいう。明治に欧米から輸入され、街路樹や公園木として植えられた。夏に手のひら状の大きな葉が茂り緑陰を作る。
○夏さりにけり==夏がやって来たことだ。「さる」 は季節や時をあらわす語について、やって来る、来る、の意。「春されば」 「夕されば」 などという。
【鑑 賞】

「篠懸樹にかげ」 という題の五首連作の一首目である。
プラタナス並木は、今でこそありふれたものとなってしまったが、この歌が詠まれた大正初期には都会的でハイカラな風物であった。 街路樹は新しく整えられていく待ちの象徴なのである。
そのオウラタナスの木陰を乙女が歩いてゆく。初夏の汗ばむ季節、乙女の顔は上気してほんのりとばら色にそまっている。瞼にも血潮の色が透けて見えるかのようだ。プラタナスも乙女も、始まったばかりの夏も、東京の街も、若々しい命にあふれている。
なお 「血しほ」 は、与謝野晶子の 「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」 をも連想させる言葉であり、この歌に一点の官能性を与えている。
「篠懸樹のかげ」 が発表されたのは大正三年 (1914) 憲吉は東京帝大の学生として都会の生活を満喫していた。憲吉の歌はアララギ派の歌人の中でも都会的、近代的な傾向があると評されるが、そのような作風は東京で暮らす中で得られたものであった。
同時期の歌には、
「ニコライの 屋根みてあれば 樹のかなた 学校のべるの 鳴りて居るかな」
「ひろびろと 河の口より 夕映す 溝橋にちかづく 大きな帆のかげ」
などがある。

【補 説】
『アララギ』 誌上に発表された時は第二句 「街ゆく女らが」 であったのが、『林泉集』 では冒頭に掲げた 「かげを行く女が」 という歌形となり、さらに自選歌集 『松の芽』 では 「かげ行く女らが」 と変化している。さて、乙女は一人なのか、複数ナなのか、それぞれの好みの分かれるところかも知れない。
【作者略歴】
明治二十二年 (1898) 生まれ、昭和九年 (1934) 没、享年四十五歳。
広島県双三郡布野村の酒造業を営む素封家の家に生まれる。
第七高等学校在学中から短歌に親しみ、明治四十一年 『アララギ』 創刊に際して同人として参加した。
同四十三年東京帝国大学法科大学経済科に進学し、東京で青春の日々を送ったが、大正四年の卒業と同時に結婚して帰郷し、家業を継いだ。
その後は、一時期大阪毎日新聞の貴社を勤めた外は、中国山地の寒村の地主として歌とともに生きた。
アララギ派の中心的歌人であり、歌集には 『馬鈴薯の花』 『林泉集』 『軽雷集』 『軽雷集以後』 がある。
(千葉大学助教授 鈴木 宏子)