清水きよみず へ  おん をよぎる さくら づき   こよひ ひと  みなうつくしき
【作 者】  あき
【歌 意】
清水寺へと祗園の町を歩いて行くと、桜の咲くおぼろ月の夜で、今宵逢う人々はみな美しく感じられる
【語 釈】
○清水==清水寺。京都東山の山腹にある真言宗の寺。
○祗園==京都の八坂神社のあたり
【鑑 賞】
『みだれ髪』 所収。
清水寺・祗園という古都京都においてもとりわけよく知られた土地の持つ華やかさ、そして桜月夜の美しさ、それらが互いに魅力を放ち合って春たけなわの浮き立つ気分が十二分に発揮された一首となっている。

桜の季節になって、ただでさえ心も花やいできているのに、八坂神社のある祗園のあたりから清水寺への賑やかな道を歩いて行くと、さらに気分が高まってくる。
晶子自身が 『歌のつくりやう』 の中でこの歌について
「清水寺の方へ行かうとして祗園神社の付近の町を歩いて行くと、月は桜の花に霞んで、行き交ふ人々は男も女も皆美しく感じられる夜である」
と述べている。

「桜月夜」 は晶子の造語。晶子の評にもあるように、桜の花によって月も霞むところに豪華な花のありようが感じられて、妖しくも艶やかな感じさえ添加されている点も指摘しておきたい。
それは土地柄によっていっそう高められるものであったかも知れない。

「こよひ逢ふ人」 には、場所が祗園だから舞妓もいたかもしれない。そのような人たちも含めて、往来する人 「みなうつくしき」 と思えるのは、作者自身も繁華な地の春景色の中に溶け込んで、その気分に酔っているからに他ならない。
【補 説】
この歌が 「明星」 に発表されたのは、明治三十四年 (1901) 、晶子が二十四歳の時であった。同じ年に鉄幹と結婚しており、彼女自身の恋のときめきもこの歌には反映されている。 (ただし、歌自体には、春という季節そのものへの、もっと広い美意識に適応する、普遍的な要素を備えている。)

晶子は堺に生まれており、また王朝文学への理解の深まりによって、さらに鉄幹と語らいを持ったという意味でも、京都は親しみのある地であった。
「ほとぎす 嵯峨へは一里京 へ三里 水の清滝 夜の明けやすき」
など、京都を詠んだ秀歌も多い。
【作者略歴】
明治十一年生まれ、昭和十七年 (1942) 歿、享年五十六歳。
堺の菓子商鳳宋七の三女。堺女学校卒業。
明治三十四年、与謝野鉄幹と結婚し、処女歌集 『みだれ髪』 を出版した。
明星派の中心的な歌人として活躍し、日露戦争の際に詠んだ反戦詩 「君死にたまふこと勿れ」 や、『新訳源氏物語』 でも知られている。
(学習院大学教授 鈴木 健一)