せん せられて藍關らんかんいた姪孫てつそん しょうしめ
韓 愈
中唐 (768〜824)

一封朝奏九重天

夕貶潮州路八千

欲為聖明除弊事

肯將衰朽惜残年

雲横秦嶺家何在

雪擁藍關馬不前

知汝遠來應有意

好収吾骨瘴江邊
いつ ぷう あしたそうきゅう ちょう てん
ゆう べにちょう しゅうへん せらるみち はっ せん
聖明せいめいためへい のぞ かんとほっ
あえすい きゅうもっ残年ざんねん しまんや
くも秦嶺しんれいよこ たわりて家何いえいず くにか
ゆき藍關らんかんよう して馬前うますす まず
なんじきたまさこころ るべし
ほねおさ めよしょう こうほとり

朝、一通の上奏文を九重の宮居るの天子にたてまつった。
そうすると夕べには,はやくも八千里ものかなたの潮 州に流されることになった。
聖明の天子のために弊害を除こうと思ったのであり、衰え朽ちたわが身ゆえ、今さら どうして残年を惜しむことがあろうか、あといくばくもない命を惜しいとは思わぬ。
雲は秦嶺山脈に横たわって、わ が家はどこにあるかわからない。
雪は藍田の関をうずめつくして、わが乗る馬の歩みもすすまない。
お前がこうし て遠くまで来てくれたのは、当然何かのつもりがあってのことにちがいない。
そうだ、その考えのとおり、それなら 私がかの地で死んだなら、骨を瘴江のほとりでひろってほしい。