新井 白石
1657 〜 1725

かつけい ぼうくだ してはじ めてゆきこころ
ふん ぷん たる せち よう かん なり
いつ こんめい げつ さと
いく へんらつ やま
けんひっさ げてかしわ せきたず
れん いてせい りょう がんたい
ぼん ばい くしてかくとど
すく たりりゅう とう げんかん
瓊鉾試雪

紛粉五節舞容

一痕明月茅渟里

幾片落花滋賀山

提劍膳臣尋虎跡

捲簾清氏龍顔

盆梅剪盡能留客

濟得隆冬無限艱

(通 釈)
地上に散り敷く清浄な雪は、かってわが国の高度誕生の昔、草木などと同じように作られたものであり、常寧殿 (ジョウネイデン) 、清涼殿 (セイリョウデン) 、に舞姫が袖を翻して舞うさまは、雪が乱れ散るさまに似て大変静かに雅やかである。
一片の明月が茅渟の里を照らすとき、海岸の白砂はさながら雪が積もったように美しく、滋賀の山に桜の花がとめどなく散るさまは、これまた雪が美しく降りしきる風情である。
百済に使いし、彼の地で我が子を虎に食まれた膳臣巴提使 (カシワデノオミハコビ) は雪の中の虎の足跡を尋ね、ついに、その岩窟に入ってこれを殺し、我が子の仇を取ったと言う。
「香炉峰の雪はいかに」 と問われ、お側に仕える清少納言がすぐに簾を巻上げたというのも清少納言の日頃の学殖の深さを示すものとして忘れがたい。
また北条時頼が出家姿で諸国を遊歴し、行き暮れて佐野常世の家に一夜の宿りを乞うた時、常世が貧しい中にも快く泊め、大事な鉢植えの梅を惜し気もなく焚いてもてなし、時頼の厳寒の苦労を救ったというのも、雪にまつわるうるわしい話である。

==かって。以前。あるいは昔から今まで。
○瓊鉾==天のぬぼこ。瓊は玉、元来は美しい赤い玉、それより美しいものの例え。鉾は矛、玉で飾った矛。『古事記』 <神代紀> に見える。伊弉諸尊 (イザナギノミゴト) と伊弉冉尊 (イザナミノミゴト) が天神の命により、天地未分の状態であったのをこの矛を使って整えて国土を経営され、諸神を生み、山海・草木を分掌したという “天地創造説話” による。つまり、まだ雨も雪もなかった時、この夫婦神の持たれる矛によってそれが初めて作られたという古事の引用。
○試雪==初めて雪を作ったの意。
○紛粉==ものが多く交わり乱れるさま。
○五節==天武天皇が吉野においでの折り、琴を弾かれた時、前方の山に女神が現れ、曲に応じて舞ったのに始まるといわれる朝廷の公事。少女楽で、公卿の娘三人、国司の娘二人、合わせて五人で舞う。初めは毎年十一月の丑・寅・卯・辰の四日にわたって行われたが、後には大甞会 (ダイジョウエ) にのみ行われることになった。
○舞容==舞能。舞う姿、様子。
○閑==閑雅、閑淑、閑媚まどの意。雅やか、うるわしいさま。
○一痕==きずあと。ものがあった後に残ったしるし。形跡。一痕は多く月の跡をいう。
○茅渟里==和泉の国の南部の地方。茅渟の里は大阪府泉南郡上之郷村にあった。茅渟の海は今の大阪湾一帯。
○滋賀山==天地天皇の時代、わずかに六年ではあったが、都があった。桜で有名。
○膳臣==膳を (かしわで) と読むのは、昔 “かしわ” の葉で食器を作ったことによる。
膳臣巴提使 (カシワデノオミハコビ) は上代の勇将で、欽明天皇の四年百済に使いし、子が寅に食われたとき、寅の窟に入り、寅の舌を執って刺し殺し、川を剥いで帰ったという古事の引用。
○捲簾==清少納言が雪の朝、中宮に香炉峰の雪はいかにと問われ、白楽天の “遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き、香炉峰の雪は簾を捲げて看る” の詩句にちなみ、直ちに廉を捲いて、外の雪をお見せしたという史実をいっている。
○清氏==清少納言。『枕草子』 の著者。
○竜顔==天使の御顔のこと。天子は竜の生まれ変わりという信仰から竜の字をよく用いる。
○盆梅剪尽==最明寺入道時頼 (1227〜1263) が出家後密かに諸国を遍歴して治政民情を観察して歩いた折、雪の日たまたま佐野源左衛門尉常世の居た宅を訪れ、一夜を乞うに、貧にして薪にもこと欠く有様であったが、鉢植えの松と竹と梅とを焚いてもてなしたと言う史実の引用。謡曲 『鉢の木』 はこれによる。


(解 説)
<容奇> は雪を表し、字音を借用したもの。白石が某宅の主人にこの文字を示され、即興に作ったものだといわれる。
白石は、もともと歴史の造詣が深い。この詩でも、歴史上の故事を引用して、雪の日の感慨を詠じている。
(鑑 賞)
故事を自在に使用した詩で国史に精通の程が偲ばれる。 「詩想雪の如くに湧く」 と称すべきであろう。
漱石の詩才について、江村北海は 『日本詩史』 巻四に 「天授敏妙、芸苑に独歩す。所謂錦繍腸、咳唾も珠を成し、囈語も韻に諧う」 と述べている。