(通 釈)
時は明治に改元されるという慶応四年五月も半ば、渋沢成一郎天野八郎などを将とする上野山中の彰義隊に加えられる官軍の砲火は寸刻も止む時なく、雨霰と降り注ぎ、燃えさかる火勢は天をも焦がす様相を呈し、夏草も紅く染めている。
ここに籠る隊士達は首級を失うのはもとより覚悟の上、奮闘よく一死に甘んじ、累代の主君の恩に報いようと、一兵の援軍も無き戦いに忠節を天下に示して斃れたのである。
大村益次郎の布陣は、蟻の子一匹這い出る隙もなく、包囲も次第に狭められ、あらゆる作戦も全て甲斐なく、それこそ坐ながらにして三軍四面の攻めを受け、一日にして潰えたのである。
そのやるかたなき悲憤の情は、今なお鬼となって、声上げて泣き、その凄まじい悲しみの声は、風に乗って、上野・谷中の山々を埋めて響くかのようである。
○劫火==世界壊滅の時に起こる大火災。劫焔、劫災に同じ。
○焼天==焦天に同じ。火勢の強烈なさま。
○親臣==親臣は世臣に対する。世臣は代々君に仕え、国と希喜憂いを共にするもの。親臣は君臣が心から親しみ信頼する家臣。
○孤臣== (孤忠天地知) とは岳飛の墓に詣でての胡烟文の詩の一句であるが、他人の援助なく、おのれ一人にて尽くす忠義。
○百計千方・・・== (百千計方) の互文。種々の計謀方策。いろいろ工夫手段を尽くすこと。
○三軍・・・==大軍の意。
○四面・・・==四方から攻められること。孤立して援助なく、四方皆敵の意。
○視S==本来は悪鬼、疫病神の意。ここでは祀られないで恨み嘆く戦死者の意。
○啾啾==亡霊が泣く声。
○悲風==悲哀の情をそそぐ風。秋風の意もある。
○動==騒に同じ。
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(解 説)
明治元年 (1868) 戊辰戦争の時、江戸城無血開城後、上野に立て籠り、官軍と戦った彰義隊の行動と悲劇を詠じたもの。
薩摩・長州の方針は倒幕、そして維新の実現にあった。これは、徳川慶喜の大政奉還によって一時宙に浮いた格好となったが、倒幕の方針は変わらず、慶喜になお辞官納地を迫り、江戸では戦争への挑発が盛んだった。
此れに不満を持つ旧幕府側の武士たちは、交戦して局面打開を図るほか道なしとして、会津・桑名藩を中心とし、明治元年正月三日大阪を発し、薩長を主力とする朝廷側の勢力と鳥羽・伏見で戦った、いわゆる戊辰戦争の開始である。
鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍の大敗に終わり、東へ敗走した。これより政府軍は有栖川宮熾仁親王を東征大総督と仰ぎ、東海・中山・北陸の各道から江戸城攻略へと進撃した。
すでに大政奉還した慶喜にはまったく戦意なく、フランス公使からの助力申し出も断り、もっぱら恭順の意を表した。
江戸城も静寛院宮 (皇女和宮、故家茂の御台所) 、勝安房、西郷隆盛らの努力により、同年同月二十一日、無血開城となった。
だが、無血開城といっても、江戸を中心とする関東武士団の中には、薩長の方針に対して抱いていた不満を抑える事が出来ない人たちが多く、ことに上野東叡山に根拠を置く彰義隊は、一橋縁故の者が多かった関係から、その不満は強く、それが爆発して徹底抗戦となった。
慶喜守衛を名とし、輪王寺宮公現親王を擁し、諸藩の脱走兵を加え、その数は三千に達した。政府軍は慶喜をして解散させようとしたが応ぜず、緊迫の度は高まるばかり。
慶喜はついに五月三日、江戸を去って水戸に赴いた。
第三句 (志士元を喪うも一死に甘んじ) は、この間の事情を述べている。ここに至って、政府軍は大村益次郎が京から江戸へ走り、五月十五日、上野の山を包囲、一挙に攻撃をかけ、一日でこれを殲滅した。親王は、かろうじて海路欧州へ逃れた。
(鑑 賞)
慶喜の大政奉還、そして恭順、江戸城無血開城などによって、江戸の犠牲は最小限にくい止められたが、徳川三百年の中に生きてきた彰義隊の隊士たちの気持ちはおさまらなかった。
同じ幕臣の一人として、しかも幕府の重職にあった作者が、その彰義隊の隊士たちに満腔の同情を禁じえなかったのは無理もない。
作者が明治政府に仕えることがなかったのも、その心に根ざしていると思われる。作者は、そうした自分の気持ちから、官軍に抗した旧幕臣たちの末路を心から傷んでいる。
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