らつ
鱸 松塘
1823 〜 1898

開落かいらく って東皇とうこう うことなか
かぎはん 夕陽せきよう なりやす
みずのぞ んでたずがた当日とうじつかげ
らん ってとの満庭芳まんていほう
三春さんしゅん 風前ふうぜんとお
じゆう 珠簾しゅれん すず
たと紅顔こうがん をして空谷くうこく てしむるも
なん柳絮りゅうじょ うて顛狂てんきょうまな ばんや
莫將開落問東皇

有限繁華易夕陽

臨水難尋當日影

倚欄猶唱滿庭芳

三春綺夢風前遠

十里珠簾雨裏涼

縦使紅顔空谷棄

寧追柳絮學顛狂

(通 釈)
開いたと思えばすぐ散らしてしまう訳を、うらめしげに春の神に問うことはない。
華やかな花の時にも限りがあって、朝日を受けて咲き、夕べには散ってしまう。水辺に臨んで散ってしまうような事でもあれば、盛時の面影は見つからない。
欄干に寄りかかって、なお爛漫の時を思い起こして、満庭芳の曲を歌う。
春も過ぎて、美しい夢も風の前に散ってしまい、遠いところに行ってしまう。
珠簾を捲けば、十里の間、雨にむせぶ光景がものわびしい。たとい、紅顔のような美しい花が人気一つない淋しい谷に捨て去られても、どうして柳のわたに追従して未練がましく乱れ飛ぶような真似をしようか。

○落花==詠物詩の題名としてよく使われる。花の散るのを惜しむ詩は多く、落花のほか惜花などの詩題の作が多く作られている。此花は桜の花であろう。
○莫==勿・母とも書く。 「〜〜してはならない」 の意。
○将==以と同じ。 「〜〜によって」 の意。
○開落==花の開いたり散ったりすること。
○問東皇== “東皇” は春の神。東帝・青帝ともいう。春の神に何故花の開落をあわただしくするかを問う意。
○繁華==草木が繁り花咲くこと。また、人の若く盛んな時に例える。
○易夕陽==夕陽になりやすいこと。夕日は凋落を象徴する。盛んなものがすぐに衰えることをいう。栄華盛衰のことわりをいう。
○臨水==水面を見下ろす。花が水に影を落として咲いていたからいう。
○難尋==かって華やかに水面に映じていた花を探し当てるに困難である事をいう。
○当日影==さかりの頃、水に映った花の鮮やかな印象。
○倚欄==欄干によりかかって。
○猶==いつまでも。やはり。
○唱満庭芳==満庭芳の詞をうたう。「満庭芳 」 は詞譜の名、また曲譜。
○三春==一年を四季に分けたうちの、春三ヶ月。
○綺夢==美しい夢。綺はあやぎぬ。
○風前遠==春の美しい夢も、風の前に散ってしまい遠のく。
○十里==十里の間。雨が十里にわたって降っていることをいう。昔、国道の休憩所は十里ごとに設けられた。長い距離をいう。
○珠簾==たまかざりのついたすだれ。美しいすだれ。
○雨裏涼==雨中の光景にさびしさがある。 “涼” はひややかでさびしい意。
○縦使== 「たとい〜〜するとも」 の意。
○紅顔==あかくつやつやした顔。美人の顔。ただしここでは花をいう。
○空谷==人気のない谷。さびしい谷。
○寧== 「どうして〜〜しようか、いや〜〜しない」 の意。
○柳絮==柳のわた。柳花。柳の実が熟して、春の終わり頃、雪のように乱れ飛ぶもの。
○顛狂==気が狂うこと。柳絮が乱れ飛ぶさまをいう。


(解 説)
落花に心を寄せて、人生は落花のように執着なく、俗にこだわらず生きたいものだと詠ったもの。絵画的な場面構成の中に都会風の洒落がひそんでいて、松塘らしい作風といえよう。
第一・二句は落花を春の神の仕業として恨む事はない、繁栄には必ず零落があるのだと述べ、第三・四句では、そうは言っても散ってしまえばさびしいもので、花の盛時を想い、満庭芳の曲を口ずさむ気持ちを述べている。
また第五・六句では、三春の夢の跡も遠く、そぼ降る雨に悲哀を噛みしめる。
第七・八句は美しい花びらが塵土を化するようなことがあっても、柳のわたのような執着するふるまいはしたくないものだと結んでいる。
(鑑 賞)
花が美しく咲いて、潔く散っていく情景を詠じた、いわゆる詠物詩だが、その表現の中に巧みに自分の人生観を詠じ込んでいる。
松塘は、生来、社会的地位や利を貪る事を好まず。高い品格を持った人物だった。その人柄から、詩風も自ずから清雅なものとなっている。その特徴が端的に出ている作品といえよう。また、三句から四句へ、さらに五句から六句へ転じていく中で、一句一句が変化に富み、技巧の粹を凝らしている。