(通 釈)
太平洋に面した旅館に草鞋を脱ぎ、見晴らしのいい階上に上がって、万波を凌いで渡ってくる風に吹かれて、酒杯を挙げれば、酒量はすすみ、顔は紅くほてり、耳朶は熱くなって、いつしか深く眠ってしまった。
と、夢の中に、欄干の遥か彼方に、雲と波が一つになった彼方から、とてつもない大亀が海を蔽うようにして、幾千幾百の戦艦が襲来してくるのを見た。
われは三軍の将としてこの海岸に完璧の布陣をする。一騎当千、精悍無比、百万の勇士は怒髪天を衝くばかり、虜敵粉砕の意気はすさまじい。
ふと、夢も破れ、酒の酔いも醒めれば、部屋の燈火は燃え尽きて消えていた。ただ、耳もとには、荒波の騒ぐ音が打ち鳴らす太鼓の音のように聞こえていた。
○客舎==宿屋。旅館。
○海楼==海辺の高殿。海に臨んだ楼屋。
○長風==遠くから吹いてくる勢いのある風。また、こちらから遠くに吹いてゆく風。
○酔眠==酒に酔って眠る。 ○雲濤==雲と波。
○巨鼇==大きな海亀。神仙の住む五つの山を背に乗せて海中に住むともいう。
○艨艟==軍艦。細く長い船体を獣の革で蔽い、矢・石の類を防ぎ、突き進んで敵の船を破るもの。という原意からきている。
○貔貅==虎や熊に似た猛獣。昔は馴らして戦争に使用した。其れより転じて勇猛な軍隊を指す。
○鼕鼕==太鼓の音。ここでは、太鼓を打つように波が響いて来る事。
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(解 説)
嘉永五年 (1852) 松陰二十三歳の時、東北旅行の際、磯原海岸の旅館で外艦来寇の夢を見て作ったもの。
磯原は茨城県の東北方、今の北茨城市内。海岸は海水浴場として名高い。松陰は、軍学に於いても高い見識を持っていた。十一歳の時、藩主の前で講じたのも、他ならぬ兵書であり、十九歳の時には兵法師範の役に就いている。
さらに佐久間象山 (1811〜1864) に師事した。象山から蘭学のみか砲術をも学んでいる。象山は海防急務の主唱者の一人であった。
安政五年 (1858) 、井伊直弼 (1815〜1860) が外国との通商条約に調印するや、激しく尊皇攘夷・倒幕論を主張したのも、軍楽に基づく海防論を背景にしている。
この時は、嘉永五年、兵学研究のため、江戸に出ていた当時、宮部鼎と東北旅行を計画、藩庁に願い出たが、事情あって通交手形が出ないのを待ちきれず、やむなく亡命旅行
(このため、後日謹慎処分を受ける) した時、磯原の旅館で作ったもの。
先ず、太平洋を望む自分の姿を詠じ、洋上遥かに、外国の軍艦が攻め来たる状況を描き、その軍艦に立ち向かう自分の気概を詠じている。
(鑑 賞)
第一句、自分を 「李白」 といっているところが、いかにも相手の汪倫に対する親愛の情を表している。思うに、汪倫はこの辺りの村の長であろう。
自らよく酒を醸し、名士李白先生を快くもてなしたに違いない。
李白の人生は、このような人の好意によって、気ままに過ごすことが出来たのだ。ということは、李白の性格が開けっぴろげで飾らず、かっては翰林共奉というような官にありながら、庶民と対等に交わったのが、庶民の側では嬉しかったと思われる。
李白先生、何処へ行っても人気があったとみえる。この村にも汪倫の好意に、つい長逗留して、いよいよお別れ、というときに、ふと聞こえたのは汪倫が村の衆と一緒に足を踏み鳴らしながら歌を歌ってやって来る声。その嬉しさを率直に表現したのが、この詩である。
ちょうど、深さも知られぬという桃花潭の水にひっかけて、汪倫の友情の深さに比した。これも着想の妙である。
誰にでも好かれる李白の、明るい人生の一コマが、みごとに描かれている作である。 |