しゅう ざつ ぎん
土屋 竹雨
1887 〜 1958

ろく じゅう ねん 一弾いちだん
顔朱がんしゅ きてびん 凋残ちょうざん
文黌ぶんこう ひさ しくさい して せき
げい あら たにじょ せらるるもこれ散官さんかん
鴻雁こうがん 長天ちょうてん 秋信しゅうしん とお
そう こく 夕陽せきよう さむ
せい なんねが わん軒裳けんしょうとうと きを
滄江そうこううか んで釣竿ちょうかん らんとほつ
六十年華指一彈

顔朱鎖盡鬢凋残

文黌久宰無微績

藝府新除是散官

鴻雁長天秋信遠

桑楡故國夕陽寒

餘生那願軒裳貴

欲泛滄江把釣竿

(通 釈)
六十年の歳月は指一弾のようにはやく過ぎ去り、かっての紅顔も消えうせ、鬢の髪をわずかに残すだけである。
まなびやや詩社を久しく主宰してきたが、あまり成果も上がらず、新たに芸術院会員に選ばれたが、これもまた名誉職に過ぎぬ閑職である。
秋になると、大空をかけて故郷の便りを伝えてくれる雁も待ち遠しく、夕暮れの故郷の太陽は今ごろは寒々しいことだろう。
残り少ない人生、何をあくせくして富貴を求める必要があろうか、いっそのこと大河に舟を浮かべて釣り糸をたらしたいものである。

○六十==日本芸術院会員に選ばれた昭和二十四年以後、すなわち六十二、三の頃をさす。
○年華==年月。
○指一弾==指を一度はじくあいだの時間。きわめて時間の短い事をいう。
○顔朱==顔の朱色をおびたもの。紅顔の美少年をいおう。竹雨の若き頃をいった。
○鎖尽==おとろえつきる。消えおとろえる。
○鬢凋残==鬢の毛も抜けてわずかに残っている。
○文黌==黌はまなびや。すなわち大東文化学院をさす。
○久宰==文黌を久しく主宰して。昭和六年大東文化学院に奉職して以来六十に至るまであおいう。
○無微績==わずかな業績しかない。
○芸府新除==二十四年に日本芸術学院会員に列せられたことをいう。
○是散官== <是> は意味を強調する助字。 <散官> は行政官ではなく、名だけの官職。芸術院会員という職は名誉職に過ぎぬに意。
○鴻雁==大きな雁ろ雁。秋には北の国からやって来る。竹雨の故郷は山形県であり、鴻雁にかこつけて故郷の地を言おうとした。
○長天==広い空。雁が大空を渡って、竹雨がいる東京の地に来るからいう。
○秋信遠==鴻雁といったので鴻雁とした。秋に雁が持って来る便り。故郷からの便りをいう。
○桑楡==くわとにれの木。転じて夕陽の影が木を照らすことから日暮れをいう。老年のたとえにも使われる。ここでは夕暮れをいう。
○故国==竹雨の故郷鶴岡市をいう。
○余生==残りの命。
○那願==何を願おう、何も願わぬという意味の反語。
○軒裳貴==住まいと衣服の立派な事。富貴な身分をいう。
○滄江==広く深い川。鶴岡周辺の川だと赤川か青竜寺川であるが、離れているが、最上川を指すのかもしれない。


(解 説)
この詩は昭和二十四年日本芸術院会員に推されて後の作である。六十の人生を振り返り、自適の境地を賦したものである。
第一句・二句で六十歳の年月を振り返ってみると指一弾の短さであるが、すっかり老年になってしまったことを顔朱と鬢の凋落で表現し、第三句・四句で、漢詩の指導を続けてきたがあまり効果なしと謙遜し、日本芸術院会員という名誉職をもらった事に照れている。
第五句・六句で鴻雁と桑楡の語で晩年の孤独を叙し、人生の富貴など望むことなく、中国の先輩達がそうしたように、川に釣り糸をたれて悠悠自適しようという心境で結ぶ。
(鑑 賞)
日本芸術院会員に推されるということは、学者としてきわめて名誉な事である。一般的に言えば、学者として功なり名遂げたという評価であろう。だが、この作者は、自分がその会員に推された事を意識せず、それよりも、六十年の自分の人生を反省し、 <残り少ない人生を、富貴を求めず> 、自然を相手の悠々自適の生活をしたいと述べている。
高潔な学者として、また、気品のある教育者として周囲から尊敬された作者の人柄がにじみ出た作品といえよう。