あか せき かい
菅 茶山
1748 〜 1827

たん 茫々ぼうぼう たり海上かいじょうむら
水浜すいひん いず れのところ にか英魂えいこん わん
ただ 波底はてい皇居こうきょ るを
たれしん ぜん人間じんかん老仏ろうぶつそん するを
鷁首げきしゅ かえ らず たくかな しみ
鵬程ほうてい かぎり がいもんせつ
腥風せいふう 吹断すいだん蓬窓ほうそうゆめ
島樹とうじゅ 汀雲ていうん くら
蜑雨茫茫海上村

水濱何處問英魂

?聞波底皇居在

誰信人陂V仏存

鷁首不還悲楚澤

鵬程無際接獄

腥風吹斷蓬窓夢

島樹汀雲鬼気昏

(通 釈)
漁村の海浜に降る雨は茫々と一面に広がり、水辺のどこに平家一門の英雄たちの魂を求め弔うことが出来ようか。
むなしく波の底の皇居があると聞き伝えるのみであり、明の建文帝が逃れて老仏と名をかえ、市井に隠れていた伝説と同じく、安徳帝が人間に身をかくされたという古事は信じる事は出来ない。
周の昭王の鷁首の船の帰還しなかった楚の沼沢の古事も悲しい事であり、懐いは遠く、宋の幼帝が獄蛯ナ入水した伝説にはせ、安徳帝の悲運がしのばれる。
なまぐさい風が吹いて舟中旅泊の夢も断ち切られ、我に返ると、島の樹木や水際の雲の中に鬼気がたちこめている。

○蜑雨==漁師の里に降る雨。漁村の雨。壇の浦の海岸に降る雨をいう。
「蜑」 は中国の少数民族の名。船を家とし、漁業を営んだ。
○茫茫==果てしなく広がるさま。
○海上村==海のほとりの村。今の下関市壇之浦町にある壇之浦古戦場、今、赤間神社があり、平家の霊が祀ってある。
○水浜==壇之浦の水辺。 ○何処==どの場所に。
○英魂==壇之浦で戦死した英雄たちの魂。
○波底皇居==波の底にある皇居。
二位の局 (平清盛の妻時子) が幼少の安徳天皇を抱いて入水する時 「波の底にも、都の侍ふぞ」 と言った話は 『平家物語』 の 「先帝御入水」 の章に見える。
○誰信==老仏の伝説を誰が信じようかの意。
○人間==人の住む所。世間。
○老仏==ふつう老僧の尊称であるが、明の建文帝が市井に身を隠した時の仮の名。建文帝はおじの燕王に攻められ、都から逃れる事が出来ず焼き殺されたという。一説によると、僧に変装して逃れ、名を老仏と称して市井に身を隠したという。史実に反するが、安徳帝にも此れと似た伝説がある。
○鷁首==鷁の形を船首につけた船。美しい船。鷁首は水神の心を慰めるためにつけたとも、風浪に耐える鷁にあやかったものとも言われる。天子貴人の御座船の印とされた。
○悲楚沢==楚の沼沢の不幸を悲しむ。
周の昭王が楚に遊んだ時、船頭が王の悪政を憎み膠の船を造り、中流に至って膠が溶けて王は水死した。ここでは安徳天皇が壇之浦で水死した不幸に重ねて用いた。
○鵬程==鵬が飛ぶ里程。鵬は背の大きさ数千里、一飛びすれば九万里とい。
○無際==果てが無く。懐が宋の少帝が沈んだ獄蛯ノまで至ることをいう。
○接獄蛛=獄蛯フ古事にまでつながる。
“獄蛛h は獄蜴Rまたは克Rという山で、広東省新会県の南の海中にあって、奇石山と対いあっている。宋末 (1279) に張世傑、陸秀夫らがこの山に篭り、元将張弘範に攻められ、帝の衛王は陸秀夫に背負われて入水した。安徳帝の古事と対比される。
○腥風==なまぐさい風。壇之浦で多くの人が死んだからいう。
○吹断==なまぐさい風が強く吹く。
○蓬窓夢==船中で結ぶ夢。 “蓬窓” はとまを懸けた船の窓。
○島樹==島に生えている木。壇之浦は島ではないが、海岸に生えている松の林などをいったものであろう。
○汀雲==水際の雲。
○鬼気昏==死霊の気がたちこめて昏い。壇之浦で恨みをもって死んだ平家の将兵の怨霊による。


(解 説)
作者が赤間が関に旅した時の作。
ここは、昔、赤間が関の近海の壇の浦の合戦で、安徳天皇を奉じた平家一門が、戦いに敗れて入水した所であり、今も鬼気がただよっているといわれている。その伝説を踏まえ、中国の明の建文帝 (恵帝) や周の昭王の悲運と対比しながら、安徳帝入水の往時を懐古して、周辺の風情を詠じている。
(鑑 賞)
菅茶山は備後の国 (広島県) の生まれである。瀬戸内から赤間が関へ、たびたび旅したことは容易に想像される。
その旅中において、歴史に造詣の深かった茶山が、赤間が関を見ながら、源平の合戦への懐古の情にかられたのはごく自然の成り行きである。
詩中で、目に映る赤間が関の風情から、史実への懐古と移っていく展開も、実にたくみである。詩中で、安徳天皇を偲ぶに当たって、中国の明の建文帝や周の昭王の悲運を素材にするあたりは、茶山の学識の深いところを表している。茶山の傑作の一つとみていい。