こう
リュウ シャク
772 〜 842


ざく きょう へん そうはな

こう こう せき よう ななめ なり

きゅう おう しゃ どう ぜんつばめ

んでじん じょう ひゃく せいいえ
朱雀橋邊野草花

烏衣巷口夕陽斜

舊時王謝堂前燕

飛入尋常百姓家

(通 釈)
かっては都の貴族たちが袖を翻して往来した朱雀門のあたりに、今は名もない野の草花が咲いている。
王、謝など大貴族の邸宅が軒を並べた烏衣巷に、夕陽が斜めに差し込んでいる。
その昔、王、謝の邸宅に巣を作っていた燕が、今は普通の庶民の軒先に、飛んで入ってゆく。

○烏衣巷==金陵 (六朝時代は建康といった) の町の名。もと、三国時代呉の烏衣営のあったところという。東晋以後、王氏、謝氏のような貴族の住居がここに構えられた。王謝の子弟がここで風雅の遊びをしたのを 「烏衣之遊」 といってもてはやした。
○朱雀橋==朱雀門 (都の南門) の外、秦淮にかかっていた橋。烏衣巷の入り口になる。
○王謝==南朝最大の貴族。  ○尋常==ふつうの。並の。
○百姓==人民、庶民。


(解 説)
この作品は、作者が和州刺史であった五十三、四歳ごろ作った 「金陵五題」 中の第二首である。
金陵の町外れに立って、夕陽の中に飛び交う燕の姿を見つつ、六朝の繁栄を思い、栄枯盛衰を嘆じたもの。
(鑑 賞)
懐古の詩である。唐の人にとって、六朝の栄華の後を偲ぶのは、絶好の詩の題であった。六超時代が華やかな貴族の時代であっただけに、今のさびれようが詩心をそそるのである。
ここは建康の都の、名も雅やかな朱雀橋のあたり、多くの都人が往来して、賑わっていたであろう所、今はなんとペンペン草が生い茂っているのだ。 「野草花」 の 「野」 の字がまことに印象的である。これは単に 「のはら」 の意ではない。 「雅」 の反意語が 「野」 なのである。昔このあたりは、それこそ 「野」 どころか 「雅」 の中心地。だから、今も名も知らぬ野草の花が、見るものに、感傷の涙をさそうのである。
赤々と夕日に照らされ、昔の大邸宅の跡にたたずむ作者。 「烏衣巷」 の字の黒と (烏─黒) 、「朱雀橋」 の赤 (朱─赤) の対比と、 「朱雀橋」 、 「烏衣巷」 の雅やかなものと、 「野草」 、 「夕陽」 の寂しい物の対比。前半の二句で、懐古の感傷はもう胸一杯に迫ってくる。
これをバックにして、後半が実にしゃれている。かっての大邸宅の辺りには、今は普通の人家が建っているのだが、そこに、スーイスイと燕が飛んで入っていく。何気ない晩春の情景。しかし、詩人の目にはその燕の姿の中に、歴史の悲哀が映ったのだ。
燕は、いつの世にも、人の世の興亡をよそに、飛んでくる。六朝時代、大邸宅が並んでいたころには、燕は当然、王家や、謝家の軒に巣を作ったはずだ (烏衣という語は燕を意味するので、その語の連想があるかもしれない)。ところが今は、すっかり様子が変わって、貴族の栄華のあとなど跡形もない。そんんことは一切知らぬ気に、今年もスーイスイと燕はやってくる、というのだ。
しゃれていうなら、燕の姿に栄枯盛衰の理を見たのである。詩人のセンスにはほとほと感心させられる、という詩である。