しゅう
リュウ シャク
772 〜 842


いにしえ よりあき うてせき りょうかな しむ

われしゅう じつ しゅん ちょうまさ ると

せい くう いつ かく くもはい してのぼ

便すなわ じょう いてへき しょういた
自古逢秋悲寂寥

我言秋日勝春朝

晴空一鶴排雲上

便引詩情到碧霄

(通 釈)
昔から人は秋になると、その静かで寂しいことを悲しむが、私は秋の日なかのほうが春の朝に勝っているといいたい。
晴れ上がった秋空高く一羽の鶴が雲を押し分けて上ると。人の歌心をいざなって大空の上まで上らしめるようである。

○寂寥==もの静かで寂しいこと。
○秋日==ここでは 「春朝」 に対する語として、秋の日差しの輝く時、の意。
○排雲==雲を押し分ける。 ○便==するとすぐに。
○詩情==詩意、詩興に同じ。うたごころ。作者の心。詩に対する興味。
○碧霄==碧空。青空。


(解 説)
「春女は思い、秋士は悲しむ」 や宋玉の 「九弁」 以来、秋は悲しいものと詠われていたものを、秋の美しくよい面に着目し、秋の情緒をうたい上げた詩である。
(鑑 賞)
春は楽しいもの、秋は悲しいものという、通念の逆をいって、秋の楽しさをうたい上げようとした詩だが、こういう面に着目しようとするのも、中唐という時代に一つの傾向を物語るかもしれない。
ところで、この詩の見どころは、単に逆をゆく面白さに留まらず、春とは違う秋の楽しさが、どのような情景によってとらえられるのか、というところにある。
春は人を狂せしめるごとき、浮き浮きした楽しさを特色とするのに対し、秋の楽しさはあくまでも高雅な趣を有する。
青く抜けるような空に、雲を排してかける鶴の姿に、それはとらえられるのである。
見事な着想に敬服するとともに、作者の人柄が偲ばれる思いがする。