(通 釈)
才子というものは、とにかく物事にしくじりがちなものである。
何となれば、才を恃んで議論のための議論をする為に、議論倒れになって、己には何の利益ももたらさず、世の中にも何ら貢献するところが無いからである。
誰が知ろう、天は物言わずして、しかも、大自然の運行を主宰して、山は必ず青々と茂らせ、花は必ず紅く咲かせていることを。
○才子==利発な人。余りよい意味で用いていない。
○多==多くの場合。 ○過==失敗すること。
○議論==才子のする議論。
○畢竟==つまり、結局。
○世無功==世の中に貢献するところが無い。益するところがない。
○誰知==反語。・・・・ということを誰が知ろう。 (誰も知るまい、実はそうなんだ。の意)
○不言裡==無言のうちに。
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(解 説)
才子が、議論だおれにならぬよう訓戒を与えて、天が物を言わずして、しかも大自然の運行を主宰するところに留意すべきことを述べた詩。
題意は、無題というほどの意味であり、題名を遺失した、ということではない。
(鑑 賞)
才を恃んで、空しい議論をたたかわせることの無益を説いている。
起句と承句は、いわゆる流水対を形成している。転句の下三字と結句とは、 『論語』 微子篇の 「天、何をか言わんや、四時 (四季) 行われ、百物生ず。天何をか言わんや」
に基づいているのである。
非常に手厳しい戒めではある。あるいは、明治十年の西南戦争を境に、武力闘争を断念した自由民権論者が、ふたたび活発な議論を展開し始めたことに対する皮肉であるかも知れない。
してみれば、転句の二句も、意味するところが少々異なってくるであろう。 |