まつ やま じょう
小原 六六庵
1901 〜 1975


かい なんかつ きょ してしち ゆうとの

とう ねん こう いち ぼううち

さん そうろう かく うん さいそび

どう へい げん せき じつ くれない なり
割據海南稱七雄

當年偉構一眸中

三層樓閣聳雲際

道後平原夕日紅

(通 釈)
四国の海南に威容を誇る松山城は、賤ケ岳七本槍で勇名を馳せた加藤嘉明が築城し、據っていたものであるが、三百七十年前の当時の大いなる城楼、石垣、門構えなど、いまなお風格を伝えて厳然としているさまが、一目で見渡すことができる。
三層の天守閣は雲を抜きん出て聳え、また、四方を俯瞰すれば道後平野が、あたかも夕日に照らされ、紅に染まり、雄大な景観となって、遥かに広がってゆく。

○松山城==松山城は加藤左馬之助嘉明によって、慶長七年 (1602) から寛永四年 (1627) の間、二十六年に渡って継続築城されたものである。
寛永四年、加藤嘉明、会津四十万石に転封の後、蒲生忠知がこれを受け、同十二年 (1635) 松平 (本姓久松) 定行が後を継ぐ。 以後松平 (久松) 家は十数代相つぎ、二百数十年にわたって松山城主となった。
前愛媛県知事、久松定武氏先考定謨伯は大正十二年、本城地を松山市に寄贈して、いまは観光、文化の中心となっている。
海抜一三二メートルの勝山の頂上に厳然と聳える松山城は、重要文化財に指定されている。
○海南==昔の四国の地名を南海道という。
○割據==一方面の土地を勝ち取って、それを據ること。
○七雄==羽柴秀吉と柴田勝家が滋賀県北部の賤ケ岳を中心に、織田信長亡き後、決戦を行ったが、秀吉陣にあって槍を持って活躍した七人の雄将、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟谷武則、片桐且元をさすが、その中の一人、加藤左馬之助嘉明が、その後の功勲もあって、伊予松前城六万石から二十万石の大名に奉ぜられるに及んで勝山に松山城を築城した。
○当年==その当時のこと。
○偉構==大いなる構え。偉大なる建造物。
○一眸==ひとめ。
○三層==当初は五層であったが、久松定行の時代に三層に改めた。
○楼閣== 「楼」 は二階建て以上をいい、 「閣」 は立派な建物。
○雲際==雲のきわ、雲のほとり。
○道後平原==道後平野。松山城を中心とする十里四方の平野。加藤嘉明の重臣、足立重信が石手山、重信川を改修して治水の功をあげ、幾百町歩の田園に豊穣がもたらされた。


(解 説)
作者の住居、松山市勝山にある六六庵書塾は、天下の名城松山城 (別名、勝山城、金亀城、亀城) を朝夕仰ぎ見る咫尺の間にある。
三百七十年前、加藤嘉明が築城した当時を追憶し、その雄大な景観を詠んだもの。
(鑑 賞)
松山に生まれ、そして松山に育った作者は、若いときから、この松山城をふるさと自慢の一つにしていたのであろう。
正岡子規が 「松山や 秋より高き 天守閣」 と詠んだ、詩情を誘う松山城の風格と、その城から見渡せる道後平野のすばらしい夕景を、洗練された詩語を用いて、ごく自然に描き出している。
なお、この詩は昭和四十年八月、六六庵吟詠会、愛媛県吟詠総連盟、全日本吟界有志によって詩碑に刻まれ、松山城麓、長者平 (チョウジャガナル)、東雲神社境内に建立された。重量六トン、高さ三・五メートルの緑泥片岩に作者自身、直接大筆をふるって揮毫したものを、柴田一郎石工の手によって刻んだものである。