○松山城==松山城は加藤左馬之助嘉明によって、慶長七年 (1602) から寛永四年
(1627) の間、二十六年に渡って継続築城されたものである。
寛永四年、加藤嘉明、会津四十万石に転封の後、蒲生忠知がこれを受け、同十二年 (1635) 松平 (本姓久松) 定行が後を継ぐ。
以後松平 (久松) 家は十数代相つぎ、二百数十年にわたって松山城主となった。
前愛媛県知事、久松定武氏先考定謨伯は大正十二年、本城地を松山市に寄贈して、いまは観光、文化の中心となっている。
海抜一三二メートルの勝山の頂上に厳然と聳える松山城は、重要文化財に指定されている。
○海南==昔の四国の地名を南海道という。
○割據==一方面の土地を勝ち取って、それを據ること。
○七雄==羽柴秀吉と柴田勝家が滋賀県北部の賤ケ岳を中心に、織田信長亡き後、決戦を行ったが、秀吉陣にあって槍を持って活躍した七人の雄将、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟谷武則、片桐且元をさすが、その中の一人、加藤左馬之助嘉明が、その後の功勲もあって、伊予松前城六万石から二十万石の大名に奉ぜられるに及んで勝山に松山城を築城した。
○当年==その当時のこと。
○偉構==大いなる構え。偉大なる建造物。
○一眸==ひとめ。
○三層==当初は五層であったが、久松定行の時代に三層に改めた。
○楼閣== 「楼」 は二階建て以上をいい、 「閣」 は立派な建物。
○雲際==雲のきわ、雲のほとり。
○道後平原==道後平野。松山城を中心とする十里四方の平野。加藤嘉明の重臣、足立重信が石手山、重信川を改修して治水の功をあげ、幾百町歩の田園に豊穣がもたらされた。
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