くま もと じょう
原 雨城
1884 〜 1971


がくひがしのぞ西にしうみ

しら かわ みなみくだ ってみず せん かん

とう こう ぎょう しろともさか んに

しゅう しゅん ぷう ゆう こんともろ
蘇嶽東望西火海

白川南下水潺湲

藤公偉業城偕熾

秋雨春風弔勇魂

(通 釈)
偉大な阿蘇の五岳を東の空に望み、西は洋々として不知火の海が広がる。
白川の水は悠然と熊本平野を南にさらさらと音を残して流れる。
熊本城 (銀杏城) が厳としてその威容を長久に示すように、加藤清正の赫々たる武勲、偉大な治水工事による安眠救済の功績は後世に燦として輝くことである。
そして、菩提寺本妙寺の苔深い石磴に降る蕭々たる秋の雨や、春の楠の若葉に嫋々と吹き来る東風も、清正のたけき魂を慰めることである。

○蘇嶽==阿蘇山。
○火海==不知火の海。景行天皇ご西巡の際、海上に点滅する火をご覧になり、供の者に聞かれたが、誰もその火を解明する事が出来なかったことからこの名がある。不知火は旧暦八月一火 (朔) の未明午前一時ごろから出現し、二〜三時間海上に点滅する。この夜、高島公園は数千人の見物人で賑わう。
○白川==源を阿蘇に発し、熊本平野を貫流して有明海にそそぐ。
○潺湲==水のさらさらと流れるさま。
○藤公==加藤清正、幼名虎之助。
尾張国愛知郡中村に生まれ、母の縁籍で秀吉に育てられ、天正十三年 (1585) 七月、秀吉は島津義久を降し、清正に宇土城を守らせた。肥後城主佐々成政が摂津の尼ケ崎で切腹するに及んで、清正熊本城主となる。
知仁勇を兼備し、仏教の信仰厚く、常に漢籍を座右に置く。
頼山陽が 「其の猛夜叉の若く、其の慈菩薩の若し」 といったように、十歳の幼少のとき、鬼面を被って盗人をおどしたり、賤ケ獄の七本槍蔚山 (ウルサン) の籠城など抜群の闘将であった。
また、菊地川、白川、緑川、球磨川流域の堰堤治水工事、海岸の望堤 等、その数三十余、あるいは林木を植え、また、民産を興し、肥後五十万石の実収七十五万石と言われるほどに富ませた。
日本名城の一つといわれる熊本城を慶長八年 (1603) 、徳川家康が征夷大将軍になった年から起工し、四年の歳月をかけて難攻不落の堅城を築いた。
明治十年、西郷隆盛も、ついにこれを屠ることは出来なかった。
○城偕熾==熊本城が永久に素晴らしい姿を示すように、清正の赫々たる武勲、偉大な治水工事、本妙寺、豊国大明神宮の如き厚い信仰心、その偉業はまことに素晴らしいものがある。
○勇魂==たけだけしいつわものの魂。


(解 説)
京都から山鹿に帰って偶したが、昭和三十五年、新居に移り、最後の阿蘇登山をして、九月、わが家の庭から阿蘇五岳の雄大な眺めに接し、往時を思い起こして詠んだもの。
(鑑 賞)
この詩は雨城七十七歳の九月の作。済々黌山鹿分黌の生徒時代から阿蘇山を愛して幾回となく登り、生地山鹿に京都から帰ってもその登山は続いたが、すでに白髪の身となって、この年の登山は感慨深いものがあった。
新居の庭から眺める五岳の四季のたたずまいは全て一服の南画でもあった。かって、富士山を描いた筆は多く阿蘇山に変わった。
以文山荘で日暮画筆を採り、また筆硯に親しんで吟思に耽ったが、吟詠家の来訪も多く、吟詠詩を多く作詩して 「日本人の詩」 として吟詠の普及にも努めた。
この詩もそれで、阿蘇山二題中の一つ。雨城の心象に映ずる詩魂は多く絵画的で自ら読者の心を清めるものが多い。