氷 雪 の 門
作・大丘 忍
北海道稚内市の丘の上に、
樺太を睥睨するように 氷雪の門が立っている。
そこには慰霊碑があり、
次 の九人の名前が記されている。


 高石ミキ25才     可香谷シゲ 25才
吉田八重子22才 志賀晴代 23才
渡辺照18才    高城淑子 20才
松橋ミドリ18才   伊藤千枝 23才
沢田きみ 20才


朝、家を出るとき母が門まで見送って、
「気をつけてね」 と声をかけた。いつもはそんなことをしないのに、 と思って可香谷(よしがだに)シゲは思わず振り返っ てみた。
母は心細げにシゲを見つめていた。
「大丈夫よ」 シゲは微笑みを返し、自転車のペダルを踏み込む。
空は晴れ渡っていた。さわやかな夏の風がシゲの髪 をなびかせた。
昭和二十年八月一九日、樺太南端にある真岡市の 真岡電話局では、就業開始後まもなく、局長による 非常召集が発令され、全職員は持ち場を離れて会議 室に集合した。
「皆さんも御存知のように、時局は重大な局面を迎 えております」 上田局長は眼鏡を外してハンカチで拭う。
半白の 坊主頭から額にかけて汗が流れ落ちた。 上田局長の言葉は、可香谷シゲの心にくすぶって いた不安を大きく燃え立たせた。現在どのような局 面にあるかはシゲでも知っている。 八月六日に広島に原爆が投下され、九日には日ソ 不可侵条約を一方的に破棄してソ連軍が樺太国境を 越えて南下してきている。 八月十五日の玉音放送が戦争の終結を告げたにも 拘らず、ソ連軍の攻撃は激しさを加えていたのだ。 数週間のうちにソ連軍はこの真岡市にも殺到するだ ろう。
それまでに日本軍が体勢を立て直して反撃すること ができるのだろうか。
次の言葉をためらうように局長の顔は歪んでいた。
隣にいる高石ミキが汗ばんだ手でシゲの手を握りし めた。ミキはシゲと同期に電話局に奉職して九年と 四カ月になり、独身の交換手の中では最年長者であっ た。
「陸軍からの緊急連絡によると、ソ連艦隊が真岡沖 に結集しております。まもなく鑑砲射撃が始まりソ 連陸戦隊が上陸して来るでしょう。これに対する陸 軍樺太方面指令官からの命令を伝達します」
皆は顔を見合わせた。ソ連海軍による真岡市の直 接攻撃は予想しない事であった。
戦争はすでに終結 しており、地上戦もソ連側が攻撃を中止することに かすかな望みを繋いでいたのだ。
真岡市には、樺太駐在の守備隊が結集し最後の防 衛線を張っているが、その貧弱な装備ではソ連軍の 総攻撃を食い止めることは不可能だと思われた。
局長はもう一度眼鏡を外し額の汗を拭いた。
「この真岡電話局は、樺太における最後の連絡拠点 であり、今後の作戦遂行上その機能を停止すること はできません」
局長は並んでいる電話交換手の顔に目を移し、シ ゲとミキのところで視線を止めた。
「決死隊を募り、最後までこの電話局の業務を死守 せよとの命令です」
五十数名の電話交換手は呆然として局長の顔を見 つめた。
「この任務を遂行するには十五名は必要でしょう。十五名の交換手を残して、他の職員は直ちに退去し て頂きます。お国の為に死ぬ覚悟のある方は一歩前 に出て下さい」
局長は声を震わせてそれだけ言うと俯いてしまっ た。
十五人の決死隊。これは十五人に死ねというこ とである。
声はなく誰も動かない。局全体が氷に閉ざされた ようであった。 八月、夏の盛りとは言いながら樺太の気温はそれ ほど高くはない。
局長は額から首に流れ落ちる汗を 拭っている。
「私は皆さんにこのような事を申すのは心苦しい。 しかし、これは軍の命令です」
局長は直立不動の姿勢をとって言葉を続けた。
「軍の命令は天皇陛下の命令です。天皇陛下の御為 に命を捧げるのは、男女を問わず日本国民の義務で あります」 しばらく沈黙が続いた。
シゲには全職員の鼓動が 聞こえるような気がした。
「南方では幾多の若者が神風特攻隊として自ら死地 に赴いています。沖縄ではひめゆり部隊が・・・・」 局長の声がか細く消える。
シゲの頭の中が白くなっ た。
天皇陛下の為に命を捧げる。これはもはや神の お告げに等しい、絶対的に冒すべからざる宣告であ る。
重苦しい沈黙。皆は息をすることすら止めて自分 の存在を隠そうとしているようであった。
シゲはミキの手が大きく震えるのを感じた。
シゲの手を振り払うように離してミキが一歩前に 出た。
「局長、私が残ります」 ミキは昂然と顔を挙げた。
「死ぬ覚悟が必要ですよ」
「わかっています」 シゲの鼓動が早くなった。親友のミキは死ぬつも りで志願した。
いずれにしても十五人は死ななけれ ばならない。
自分がその十五人から外れることがで きるだろうか? ミキだけを死なせて良いのだろう か。
シゲの背筋に汗が流れ鳥肌が生じた。激しい動悸 が突き上げ、足が震える。 気がついたとき、シゲも一歩前に踏み出していた。 ふと今朝別れたばかりの母親の顔が浮かんだ。
「他に志願者は?」 あちこちから泣き声が起こった。
「シゲさんが残るなら私も残ります」 松橋ミドリが泣きながらシゲの横に並んだ。
「ミドリさん、あんたはまだ若い。残っては駄目」 シゲはミドリを後ろに押戻そうとした。
「いや、シゲさんと一緒に私も死ぬ」 集団催眠にかかったように、泣きながら次々と志 願者が前に出て十五名が揃った。
局長はもう一度最終意思を確認した。この局舎が ソ連兵に占拠されたとき、彼らの陵辱を受けるか、 自ら死をもって純潔をまもるか。それは自身が決め ることである。 自決するときの毒薬が配られた。
「もう一度確認します。残った方は死を覚悟しなけ ればなりません。残りたくない方は後ろに下がって 下さい」
誰一人として後ろに下がるものは居なかった。
「皆さんは国を守るための尊い礎です。どうか最後 まで任務を全うして下さい」
局長の言葉はシゲの耳を素通りした。
空白になった頭の中に、子供の頃両親と旅行した 北海道の山野が浮かんできた。父が戦争にとられて 戦死したのはそれからしばらくしてからだったなあ とぼんやり考えていた。
ミキにうながされて気がつくと、決死隊の十五人 を残して、局長以下職員は姿を消していた。なにか、 とんでもないことに自分が巻き込まれていることの 実感が初めて沸き起こってくる。
人気のない局舎は巨大な器のように森閑としてい た。皆は机や椅子を運んで表の入り口を封鎖した。
一段落すると三階に集まり、特殊任務の隊長に任 命されたミキを囲んで、十五人の乙女は円陣を組ん だ。
「三人は窓から海と町を見て状況を報告すること。 十人は電話の交換台に、二人は無線の通信をする こと」
ミキは手際よく役割分担を指令する。
この任務は軍の極秘事項であり、家族や友人に漏 らしてはならないことを命じられていた。誰も家族 に連絡することは許されない。
軍関係の交換台だけ を残して、他の交換台は閉鎖された。
真岡電話局は山のすそ野の小高いところにある。 シゲは三階の電話交換室の窓から真岡市の町並みを 眺めてみた。
青い空と人家の向こうに海が広がって いる。いつも見慣れた平和な光景であった。
本当に 戦争になるんだろうか。八月十五日で戦争は終わっ た筈だ。何かの間違いかもしれない。
遠雷のような微かな音が聞こえた。双眼鏡で見る と水平線の上にぽつりぽつり点が見える。ソ連の軍 艦であろう。艦砲射撃が始まったのかも知れない。
電話交換台のランプが激しく点滅し始めた。
軍か らの連絡を受けて大泊、豊原、その他の近辺情報部 へ繋ぐ。
ときどき窓の外を見てはその状況を軍の通 信部に無線で打電する。
夕方になると交換台がすこし静かになった。窓か ら外を見ても様子に変わりはなかった。 皆は高石ミキの周りに集まってきた。
「敵が攻めてきても日本軍がおっぱらってくれるわ ね」 若い交換手が呟くように言った。
「そりゃあ当然よ。そのために私達が頑張っている んだもの」 ミキが笑って見せた。安心したように若い交換手 がうなづいた。
「わたし、怖い」 文子という若い交換手が泣きだした。
「怖ければ今のうちに裏から逃げなさい」 シゲが優しく文子の肩に手をおいて言った。
文子の頬をミキが平手で打った。
「逃げては駄目。始めから覚悟していたことでしょ」
おびえた目で文子はミキを見つめる。文子は助け を求めるようにシゲに視線を移した。
「怖がってるのにかわいそうではないの」
「そんなことを言ってる場合ではないでしょ。怖い のは誰だって同じ。でも私たちは決死隊よ。死ぬ覚 悟は出来ているはずでしょ」
「でも、一人抜けたって任務には支障はないでしょ う」
「馬鹿を言わないで。これから戦になって負傷者が でたらどうするの。この人数でも足りないくらいだ わ」
シゲとミキは激しく言い争った。 ミキは机を叩いて叫んだ。
「ここでは私が隊長。隊長として一人の脱落者も許 さない」 シゲは口をつぐんだ。
ミキの言うことの方が正し い。一人でも脱落すれば臆病風に吹かれて次々と脱 落者が出るであろう。 でも、とシゲは思う。国のためとは言いながら、 こんな若い娘を死なせるのは残酷だ。決死隊といっ ても自分達は兵士ではない。民間人の非戦闘員だ。
夜に入ってひとしきり交換台が騒がしくなり、や がて静まっていった。
ミキとシゲが当直として交換 台につき、他のものは休ませることにした。
「どうして志願したの」 ミキが訊ねた。
「だって、誰かがやらなければならないでしょ」
「でも、あなたが志願しなくても・・・・」 シゲにはミキの言いたいことはわかっている。
ミ キの婚約者は神風特攻隊として出陣し戦死したので ある。ミキが婚約者に殉じたい気持ちが分からぬこ ともない。
では自分は? 母の悲しむ顔が目に浮かぶ。
息子を戦争で失い、 頼りの娘まで死んだなら残された母はどうして生き ていけばいいのだろう。
一時の感情にかられて軽率だったのだろうか。そ うは思いたくない。
五十数人いる交換手のうち十五 人が死ななければならないのなら、年長者であるミ キと自分が死んで、若い娘を助けるべきではなかろ うか。
ミキのその気持ちが理解できたからこそ、自 分も志願したのではないのか。
親友のミキを死なせ て自分だけが生き残ることが許されるだろうか。
不法にも日ソ不可侵条約を破棄して参戦し、終戦 を受け入れた後にもなお攻撃を止めないソ連に怒り を覚える。
祖国のために、残された母のためにも自 分が戦わなければならないのだ。
ここでミキと二人だけで居ると、死ということが 信じられないように思う。
夜はそれほど静かに時を 刻んでいた。シゲはそっと胸ポケットの毒薬を押え てみた。
地を揺るがす轟音に目覚めて、シゲが身を起すと ミキはすでに窓から外を凝視していた。
夜明けの黒 さが薄れるにつれて、沖合いに浮かぶおびただしい 軍艦が姿を露にしていた。 艦側に光が走る毎に市街地の何処かに火柱が上が る。海岸には無数の上陸用舟艇が群がっている。
「上陸したわ! すぐに打電して!」
一人が無線機に飛びついて懸命にキーを叩く。
「テキグンジョウリクセリ。シガイチチュウシンブ ニセッキンチュウ」
何度も繰り返して打電する。電話交換台のランプ が激しく点滅する。回線を繋ぐ交換手のかん高い声 が行き交う。
市内の大道路を逃げまどう民衆。それに容赦なく 銃撃が加えられている。
味方の反撃は? 双眼鏡をもつシゲの手が震えた。
日本軍の兵士の 姿はここからはほとんど見えない。もう全滅したの だろうか。
道を走る民間人が次々と倒されていく。 砲弾が一階の事務室で炸裂した。交換台が激しく 振動した。
「シゲちゃん。家に電話しなさい。お母さんにすぐ 逃げるように言うのよ」
ミキは双眼鏡を覗きながら叫んだ。私用の電話は 禁じられている。
「いいのよ。五分だけ話しなさい」 午前七時十分、シゲの家に電話がつながった。
「シゲ、何処にいるの?」 母はおろおろ声で叫んだ。
電話を通して炸裂音が 響く。
「お母さん、早く逃げて。ロスケがそちらに向かっ てる。すぐに山に逃げるのよ」
「シゲ、何処にいるの? なにしてるの?」 母は帰らぬシゲを待っていたのだ。
「お母さん、すぐに逃げて。これが最後。もう会え ない」 電話は切れた。
電話回線のいくつかは既に破壊さ れている。 炸裂音は局舎に集中し始めた。
三階の交換台室に砲弾が炸裂した。窓から覗いて いたミキがはねとばされた。立ち上がりかけたミキ が崩れ落ちるように倒れた。ミキのモンペが引き裂 かれ腰部から鮮血が噴き出している。
「ミキちゃん。しっかりして!」
シゲが駆け寄って抱き起こした。硝煙で煤けたミ キの顔が青ざめていく。
ミキはうっすらと目をあけて瞬きをした。
「もう駄目。歩けない。くすり、くすりを飲ませて」
「大丈夫よ。やられたのは腰だけじゃあないの」
「目も見えないの」 ミキは胸のポケットを探ろうとした。そこには自 決用の青酸カリの包が入っている。
震える手でミキのポケットから薬の包を取り出し、 ミキの口に含ませた。
「先に行ってるから。ごめんね、シゲちゃん」 ミキは弱々しく微笑んで目を閉じた。
まもなく息 づかいが粗くなり、激しく痙攣して動きが止まった。
「みんな!」 シゲは皆を呼び集めた。
「ここは私一人で守る。みんなは裏の山に逃げなさ い!」
「シゲさんはどうするの?」 ミドリが不安そうに訊ねた。
「私は最後までここに残る」 ミドリが声をあげて泣いた。
「シゲさんが残るなら私も残ります」
「駄目。全員死ぬ必要はないわ。死ぬのは私とミキ ちゃんだけでいいの」
「いやだあ」 ミドリがシゲに取り縋った。
「任務が終わったら私も逃げるから心配しないで」
「シゲさん一人では守り切れないでしょ」
確かにまだいくつかの交換台は生きている。連絡 があれば繋がなければならないし、市街の状況も打 電しなければならない。
「じゃあ、六人だけ逃げなさい。ここは私を入れて 八人居れば大丈夫」
シゲは文子を含めて若い順に六人を指名した。
「これは私の命令ですよ。はやく逃げなさい」 躊躇する六人を大声で叱った。
「はやく逃げるのよ。そして私たちの事を皆に伝え て頂戴!」
六人の若い娘は後ろを振り返りながら裏口から姿 を消した。
「みんな、後悔しない?」 シゲは残った七人に微笑んでみせた。
七人もぎこ ちなく微笑んでうなずき返した。
「さあ、仕事につきましょう」
交換台のランプが光り始めた。
線を繋ぐ合間を縫っ て、豊原、大泊の電話局に現状を逐一連絡する。
軍 の情報本部にも市街地の状況を打電し続ける。 僅かに残っていた日本兵の姿が見えなくなってい た。 砲弾は確実に局舎に命中している。
シゲは最後の交換台から豊原に連絡をいれた。
シ ゲの悲痛な声が銃声に混じって部屋に響いた。
「敵は完全に市街地を占領しました。ここもまもな く占領されます。これが最後の連絡です。もうすぐ 電話線も切れます。さようなら。みなさん、さよう なら。これが最後です。さようなら・・・・」
全ての電話線が切れた。
「もう任務は終わったわ」
交換台からおりてシゲは裏の窓から外を見た。
激 しい銃撃音がして弾が耳元で鳴った。
部屋に戻ってシゲはべったりと床に座った。
「駄目、裏にも敵がいる」 皆もシゲを囲んで座った。
ソ連軍の銃声が間近に聞こえてきた。まもなく入 り口が破られて敵が侵入して来るだろう。
「任務は終わったけど、もう一つだけ残ってる」
シゲは胸のポケットから毒薬を取り出した。
「飲むかどうかは自分で決めて頂戴」
「飲むわ」 ミドリが答え、皆がうなずいた。
「それなら、みんなで一緒に飲みましょうね」
皆が涙を流しながら薬を口に含むのを見届けて、 シゲは無線機の前に座った。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。 サヨウナ・・・・」
手が痺れ目が見えなくなった。 シゲは最後の力を振り絞ってキーを叩いた。
「・・・・ラ」
崩れ落ちるシゲの目には、母と一緒に歩いた故郷 の野原の景色が映ってすぐに消えた。
この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集し ていた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したという。