(通 釈)
日露戦争中の明治三十七年三月二十七日、朝日水雷長であった広瀬中佐 (当時少佐) は旅順港の閉塞作戦に参加、第一回に続いて第二回目は福井丸を指揮して四雙を沈め、部下七十余名をボートに移したが、杉野兵曹長の姿が見えないのに気が付いた。
「杉野・・・、杉野・・・、何処に居るのか」
と、呼ばわりつつ中佐は艦の内外を探したが兵曹長の姿は何処にも見当たらない。
再び、三たび、 「杉野・・・」 と叫んでも杉野の声はなく、聞こえるものは吼えるような風と荒れ狂う波の音ばかりである。
艦はもとより惜しむに足らないが、生死を共に働いている勇士の命は惜しまれてならない、然し、艦は次第に沈み、敵弾はボートに激しく集中しはじめた。
中佐は部下の促す声に 「今はこれまで」 と涙を呑んでボートに移った。其の瞬間、飛び来たった一発の敵弾は中佐の胸を貫き、あけに染まった中佐は忽ち海中に没し、軍帽だけが舞い上がってボートに落ち、空しくあとに残った。
君たちはこの壮烈無双の広瀬中佐の最後のことを知っているだろうか。 敵でさえ、この勇敢な中佐の話しを聞いて胆をつぶした程である。
さて一夜明ければ、黄海は昨夜の様子とは一変して、波はおだやかに朝日が赤々と昇っている。敵軍は礼を厚うして弔砲を轟かして中佐の霊魂を弔ったということである。
少佐であった武夫は、二十七日付をもって中佐に昇進し、その功績は金鵄勲章に輝き、正四位に叙せられた。
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