踏(ふ) み破(やぶ) る千山(せんざん) 万嶽(ばんがく) の煙(けむり) 鸞(らん) 輿(よ) 今日(こんにち) 何(いず) れの辺(へん) にか到(いた) る 単(たん) 蓑(さ) 直(ただ) ちに入(い) る虎(こ) 狼(ろう) の窟(いわや) 一(いつ) 匕(ぴ) 深(ふか) く探(さぐ) る鮫鰐(こうがく) の淵(ふち) 報国(ほうこく) の丹心(たんしん) 独(どく) 力(りょく) を嗟(なげ) き 回天(かいてん) の事(じ) 業(ぎょう) 空拳(くうけん) を奈(いか) んせん 数行(すうこう) の紅涙(こうるい) 両(りょう) 行(ぎょう) の字(じ) 桜(おう) 花(か) に付(ふ) 与(よ) して九(きゅう) 天(てん) に奏(そう) す
踏破千山萬嶽煙 鸞輿今日到何邊 單蓑直入虎狼窟 一匕深探鮫鰐淵 報國丹心嗟獨力 回天事業奈空拳 數行紅涙兩行字 附與櫻花奏九天
(通 釈) 幾重にも重なる山々は何れも高く聳えて雲に囲まれている。 天子のあとを慕い、折りあらば途中にて御乗物を奪わんものと、間道から間道を辿り、峻しい峰々を越え、美作の杉坂に至ってみれば、すでに御乗物は因の荘を目指して進まれたとか、その影は何処にもない。 機会は刻々と去るばかり、是非もない。 天下ことごとく北条の勢となろうとも、この高徳一人あることを天子に知っていただき、多少なりとも御心を慰め申し上げたいものである。 夜陰にまぎれ、ただ一人蓑笠をまとい、一本の匕首を懐にして虎狼の窟、鮫鰐の淵ともいうべき警戒堅固な陣屋に忍び入った。 ああ、さりとて、一人の力だけでは、いかに報告の丹心をつくし、回天の事業を成さんとしても不可能である。 天子の御座所近くにありながら、徒手空拳ではいかんとも成しがたい。 おのれの非力に無念の涙は尽きない。せめて、間近に伺候した者のあることを知って頂いて、御心を安んじようと思う。 桜の幹を削り、したためるはただ二句。 (天勾践を空しうする莫れ。時に范蠡無きにしも非ず) 聡明なる天子のことであらせられるから、必ずこの句をお読みとりになり、高徳の微衷をお汲み取りいただいたことであろう。