(通 釈)
「平氏にあらずんば人にあらず」 といった栄華の夢も、わずか二十年ほどで消え去り、今一の谷の古戦場に来てみれば、沖合いから吹く風に、かっての豪奢も払い尽されている。
それのみか、四辺には悽涼の気がただよい、その気を押しのけるようにして、高低の山が突き出ている。
波も飛沫を上げて荒れ、海底に眠る平氏の恨みの叫びをほとばしらせ、東の方、京の都を恋うて荒れているかのようである。
仰げば、空高く鴻が飛んで行く。あの鴻ならば、昔時の有様を知っているであろう。事の仔細を尋ねたい。
ここで流された武士の鮮血は、どれほど夥しいものであったであろうか。壘のあとと覚えるあたりの、樹木は枝を繁らせ、折りしも鳴く杜鵑の吐いた血かと見まちがうほどの赤い花が、あちらこちらに咲いて、すざまじい戦いの跡を偲ばせるのである。
○海?==海岸のこと。
○參差==物の長短ぶぞろいのさま。
○冤声==恨みの声。海底の藻屑と消えた平家一門の成仏しえないでいる魂が、波に乗って聞こえてくるようだという。
○日夜東==東方は平家が都した京を指す。この京を慕って、亡魂が昼となく夜となく、波騒ぐ折、慟哭するようだというのである。
○去鷁== <鷁> は龍頭鷁首の船で、天子の御座船。去鷁は清盛の娘徳子が生み奉った安徳天皇 (時に八歳) が船を召して逃れんとし給うも叶わず、祖母二位の尼に抱かれ、入水されたことをさす。
○朶==枝条、えだ。 |
(解 説)
源平合戦の一つ、一の谷の古戦場に立って、その戦いの跡を、敗北した平家の側にたって詠じた詩。
詠史を得意とした星巖の作品の中でも有名な作品の一つ。
安徳天皇の寿永三年 (1184) 二月七日、源氏と平氏は、攝津国武庫郡一ノ谷 (今の神戸市須磨区内) で戦った。
前年京を追われ、西走した平氏が勢力を回復して攝津福原まで進出すれば、源氏の大将源範頼・義経はそれぞれ福原の東方・生田の森、西方・一ノ谷より攻めて、平家軍を破った。
平家は大将宗盛以下、海上を讃岐の屋島に逃れたが、忠度・通盛・盛俊らは戦死し、重衡は捕虜となって捕らえられた。敦盛は哀話を残して他界した。また、宗盛以下、脱がれた者も、壇の浦で全滅する。
詩は、まず平家二十年の栄華の跡を振り返り、平家の武将達の恨み残る一の谷の光景を詠じ、続いて、安徳天皇の入水について、平家の誰もが悲嘆の涙でくれたであろうことを述べ、ほとんど時を同じくして、相次ぐように死んでいった平家武士の魂のさまよいを回想している。
(鑑 賞)
江戸の文壇では、一時、 「文は山陽、詩は星巖」 と言われた時代があった。星巖は、それほど詩才にすぐれ、周囲の人々から、 “天禀の才”
と言われた。
この詩でも、展開の妙にその才が見られる。
第一句・二句で、一の谷の幻影を詠じ、第三句・四句では山から海に転じ、第五句・六句の悲劇を回想したあと、結局で、ふたたび自分の目に映る
“紅い花” を詠じている。そして、この急テンポの展開の中で、平家の武将達の恨魂を鮮明に浮き彫りにしている。星巖ならではに作品といえるだろう。 |