しょ かい
西郷 南洲
1827 〜 1877

人生元不長

此身豈其輕

計利應計天下利

求名須求萬世名

況當虎呑狼噬際

齷齪無用守其疆

青山到處骨可埋

誰爲一朝卜枯榮

男兒所要在機先

好揚汝鞭試啓行

一葦纔西大陸通

鴨緑送處崑崙迎

秋草漸老馬晨嘶

天際無雲地茫茫

嗚呼予二十七將終一生半

肺肝其能何處傾

感來睥睨長風外

月自東洋照西洋
人生じんせい もと なが からず
あに かろ からんや
はか らばまさてん はか るべし
もと むればすべか らく万世ばんせいもと むべし
いわ んや どん 狼噬ろうぜいさいあた っては
齷齪あくせく きょうまも るのよう からん
青山せいざん いたところ ほね うず むべし
たれ一朝いつちょうため えいぼく せんや
だん よう するところ せん
なんじむちこころ みにこうひら
いち わず かに西にし にすれば大陸たいりくつう
鴨緑おうりょく おくところ 崑崙こんろん むこ
秋草しゅうそう ようや いてうま あしたいなな
天際てんさい くも 茫々ぼうぼう
われ じゆう しち まさ一生いっしょうなか ばをおわ らんとす
肺肝はいかん いず れのところ にかかたむ けん
かんきた って睥睨へいげい長風ちょうふうほか
つき東洋とうよう より西洋せいよう らす

(通 釈)
人生は長いものではなく、人間生まれて百とは生きられない。さりとて、人間の生命は羽のように軽いものではない。限りあるものであればこそ、大切にし、大志を抱き、それを成就せしめることこそ、人の世の短さを有意義に過ごす事になるのだ。
利益を追求すること、それも意義のないことではない。ただ、どうせならば、天下万民のためになる利益を計るべきである。
名誉を得んとすること、それも意義のないことではない。しかし、どうせ求めるなら、万世に馥郁として残る名を求めるべきである。
ましてや、今わが国未曽有の大事のときであり、虎や狼にも比すべき先進の列強諸国がわが国を併呑しようとして、四海を巡って牙を鳴らし、歯を剥いている。今さら一藩の運命、前途にのみ拘泥し、汲々としてはおれない状況にある。
今こそ自藩他藩などと狭い見識は棄てて、活眼を開いて奮起しなければならない。
人間、死に場所はどこにでもある。一朝一夕の取るに足らぬことに奔命し、もって国家の興亡を誤まってよいものであろうか。いやしくも男児と生まれたからには、人の先頭に立ち、信ずるところを果敢に決行すべきである。さあ、君、鞭を打ち振り鳴らして輝かしい路を切り開きたまえ。
目をあげて世界を望めば、世界も小さくなる感がある。小舟に乗って少しく西へ向かえば大陸に通じ、鴨緑江を一跨ぎすれば、崑崙が雲を圧して聳えている。
広大な原野は、もう秋となって草は枯れ、馬は暁天に向かって声高く嘶き、空は澄み、大地は果てしなく広い。これこそ、日本の男児の雄飛すべき世界である。
自分はもはや二十七歳、一生の半ばは過ぎた。それを僻陬の地、九州の一端の地にあって、鬱勃たる意気を抑えかねている。
この代経綸は何処でどのように行うべきか。感懐は尽きず、風はまた吹き止まず、気がつけば何時しか手をこまねき、風に立って天の一角をにらんでいる。
今しも秋に月は中天に昇って晧々と輝き、東洋から西洋へと照らしている。この月の明るいごとく、小国といえども日本の国威を列国に示すべきである。

○書懐==平素の感慨を書きしるす。
○人生元不長==人の一生はもともと長くない。
○計利==利益の程度を計る利益を得ようと努力する。
○求名==名誉・名声を求める。
○虎呑狼噬==虎が呑み、狼が噛む。
虎狼は恐るべき者、残酷な者などに例える。虎狼国は貪欲にわが国をうかがう欧米諸国をさす。
○齷齪==歯と歯の間の間が狭いさま。それから心の狭さ。こせこせしたさま。些細な事にかかずらうさまをいう。
○疆==境に同じ。
○青山==青々とした山を意味するが、もともと墓所をさす。
○一朝==一朝一夕の意。きわめて短い時間。
○枯榮==盛衰・興亡などに同じ。
○機先==物事の兆し。物事の起ころうとするやさき。
○一葦==一枚の葦の葉。小舟に例える。
○鴨緑==鴨緑江。白頭山脈に発し、黄海に注ぐ。全長800キロ、朝鮮第一の大河。
○崑崙==チベットと新疆省との境を東西に連なる大山系。
また中国の伝説・神話を根拠とした四方にある想像上の山。
○晨==朝旦、朝。   ○嘶==馬が鳴く
○茫茫==水波の遠く連なるさま。とりとめもなく明らかならぬさま。
○肺肝==肺臓と肝臓と。転じて真心。
○睥睨==〜〜ともに見るの意だが、ただそれだけではなく、 「にらむ」 「のぞく」 の意。
“天下を睥睨する” は天下に恐る者なしとする。また天下を取らんとして虎視するさま。


(解 説)
安政元年 (1854) 南洲二十七歳、大いにその活眼を開いた頃、人生の抱負を詠じたもの。
母方から薩摩藩の碩学山田月洲の血を引いた南洲は、年若くして読書に志し、藩学聖堂に学び、十八歳の時、郡方書役となり、農政を実地に学ぶ一方、同藩の大久保利通・有村俊斎らと交わり、藩儒の関勇助から 『近思録』 の講義を受け、また、藩士にして陽明学者だった伊藤茂右衛門から 『伝習録』 の講義を受けていた。そして、藩儒勇助の推薦で斉彬の庭方 (伝達役、今の秘書官) になり、そこで、斉彬の活眼にかない、斉彬に随行、江戸に出て藤田東湖・橋本左内らに会い、大いに活眼を開いた。
この詩は、その当時の作。前半で人生、天下を論じ、後半では東洋経綸の抱負を述べている。なお、
吟詠では、この詩は第十句以降を “節録” する場合が多いが、ここでは前詩掲載しておく。
(鑑 賞)
南洲が藩主斉彬の活眼にかない、その側近として活躍を始めた1850年代の日本は、アメリカ・イギリス・ロシアなど外航船の往来をきっかけに、物情騒然としていた頃である。
こうした時に当たり、南洲はこの詩で大胆に大局を見て説いている。詩には、学識豊かにして、壮大気宇なるものが感じられ、南洲が、このとき既にすぐれた見識を持ち、武士としてよりも国士の立場で、日本の将来をいかに真剣に考えていたかを示している。
( 備考)
この詩は、南洲の作としての根拠はないが、一般にそういわれているので、南洲作として扱う事にした。