(通 釈)
人生は長いものではなく、人間生まれて百とは生きられない。さりとて、人間の生命は羽のように軽いものではない。限りあるものであればこそ、大切にし、大志を抱き、それを成就せしめることこそ、人の世の短さを有意義に過ごす事になるのだ。
利益を追求すること、それも意義のないことではない。ただ、どうせならば、天下万民のためになる利益を計るべきである。
名誉を得んとすること、それも意義のないことではない。しかし、どうせ求めるなら、万世に馥郁として残る名を求めるべきである。
ましてや、今わが国未曽有の大事のときであり、虎や狼にも比すべき先進の列強諸国がわが国を併呑しようとして、四海を巡って牙を鳴らし、歯を剥いている。今さら一藩の運命、前途にのみ拘泥し、汲々としてはおれない状況にある。
今こそ自藩他藩などと狭い見識は棄てて、活眼を開いて奮起しなければならない。
人間、死に場所はどこにでもある。一朝一夕の取るに足らぬことに奔命し、もって国家の興亡を誤まってよいものであろうか。いやしくも男児と生まれたからには、人の先頭に立ち、信ずるところを果敢に決行すべきである。さあ、君、鞭を打ち振り鳴らして輝かしい路を切り開きたまえ。
目をあげて世界を望めば、世界も小さくなる感がある。小舟に乗って少しく西へ向かえば大陸に通じ、鴨緑江を一跨ぎすれば、崑崙が雲を圧して聳えている。
広大な原野は、もう秋となって草は枯れ、馬は暁天に向かって声高く嘶き、空は澄み、大地は果てしなく広い。これこそ、日本の男児の雄飛すべき世界である。
自分はもはや二十七歳、一生の半ばは過ぎた。それを僻陬の地、九州の一端の地にあって、鬱勃たる意気を抑えかねている。
この代経綸は何処でどのように行うべきか。感懐は尽きず、風はまた吹き止まず、気がつけば何時しか手をこまねき、風に立って天の一角をにらんでいる。
今しも秋に月は中天に昇って晧々と輝き、東洋から西洋へと照らしている。この月の明るいごとく、小国といえども日本の国威を列国に示すべきである。
○書懐==平素の感慨を書きしるす。
○人生元不長==人の一生はもともと長くない。
○計利==利益の程度を計る利益を得ようと努力する。
○求名==名誉・名声を求める。
○虎呑狼噬==虎が呑み、狼が噛む。
虎狼は恐るべき者、残酷な者などに例える。虎狼国は貪欲にわが国をうかがう欧米諸国をさす。
○齷齪==歯と歯の間の間が狭いさま。それから心の狭さ。こせこせしたさま。些細な事にかかずらうさまをいう。
○疆==境に同じ。
○青山==青々とした山を意味するが、もともと墓所をさす。
○一朝==一朝一夕の意。きわめて短い時間。
○枯榮==盛衰・興亡などに同じ。
○機先==物事の兆し。物事の起ころうとするやさき。
○一葦==一枚の葦の葉。小舟に例える。
○鴨緑==鴨緑江。白頭山脈に発し、黄海に注ぐ。全長800キロ、朝鮮第一の大河。
○崑崙==チベットと新疆省との境を東西に連なる大山系。
また中国の伝説・神話を根拠とした四方にある想像上の山。
○晨==朝旦、朝。 ○嘶==馬が鳴く
○茫茫==水波の遠く連なるさま。とりとめもなく明らかならぬさま。
○肺肝==肺臓と肝臓と。転じて真心。
○睥睨==〜〜ともに見るの意だが、ただそれだけではなく、 「にらむ」 「のぞく」 の意。
“天下を睥睨する” は天下に恐る者なしとする。また天下を取らんとして虎視するさま。
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(解 説)
安政元年 (1854) 南洲二十七歳、大いにその活眼を開いた頃、人生の抱負を詠じたもの。
母方から薩摩藩の碩学山田月洲の血を引いた南洲は、年若くして読書に志し、藩学聖堂に学び、十八歳の時、郡方書役となり、農政を実地に学ぶ一方、同藩の大久保利通・有村俊斎らと交わり、藩儒の関勇助から
『近思録』 の講義を受け、また、藩士にして陽明学者だった伊藤茂右衛門から 『伝習録』 の講義を受けていた。そして、藩儒勇助の推薦で斉彬の庭方
(伝達役、今の秘書官) になり、そこで、斉彬の活眼にかない、斉彬に随行、江戸に出て藤田東湖・橋本左内らに会い、大いに活眼を開いた。
この詩は、その当時の作。前半で人生、天下を論じ、後半では東洋経綸の抱負を述べている。なお、
吟詠では、この詩は第十句以降を “節録” する場合が多いが、ここでは前詩掲載しておく。
(鑑 賞)
南洲が藩主斉彬の活眼にかない、その側近として活躍を始めた1850年代の日本は、アメリカ・イギリス・ロシアなど外航船の往来をきっかけに、物情騒然としていた頃である。
こうした時に当たり、南洲はこの詩で大胆に大局を見て説いている。詩には、学識豊かにして、壮大気宇なるものが感じられ、南洲が、このとき既にすぐれた見識を持ち、武士としてよりも国士の立場で、日本の将来をいかに真剣に考えていたかを示している。
( 備考)
この詩は、南洲の作としての根拠はないが、一般にそういわれているので、南洲作として扱う事にした。 |