児島高徳は元弘の乱に際し、後醍醐天皇方として兵を挙げ、馬に乗れば縦横に敵を撃ち、馬を下りては檄文を飛ばして士気を奮い起こさせるなど、其の才の奇なること世に比肩する者はなかった。
天皇が讃岐の島に配流される時、途中で救出しようとしたが成らず、やむなく夜陰に乗じて賊中に忍んで行在所に達して見れば、警護の兵は眠ってしまって拍子木の音も止絶えていた。
高徳は桜樹の皮を削り、胸中に秘めた志を十字に託して、 「天莫空勾践 時非無范蠡」 と記した。
折から空は掻き曇り、墨の如き雲は動かず、天も亦怒る如き出逢った。
建武の中興成って、先ず勤皇の魁をなした高徳の功を明らかにする者もないのに、なお一門を挙げて忠誠を尽くし通した。
惜しむらくは、天皇再び吉野に逃れたまい、世の形勢も一変し、天皇吉野に崩じ給うに及んでは、かの桜樹に記した五字二句の詩は、徒に千古の恨みを残す種となってしまった。
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