びん 三郎さぶろう 桜樹おうじゅだい するの
菅 茶山
寛延元 (1748) 〜 文政十 (1827) (1859)

騎馬撃賊下馬檄

三郎奇才世無敵

夜穿虎豹達行在

衛兵眠熟析聲寂

慨然白樹寫幽憤

  天莫空勾践

  時非無范蠡

行雲不動天亦忿

中興誰旌首事功

一門猶懐貫日忠

金輿再南乾坤變

五字櫻花千古恨
うま りては ぞく
うま りては げき
三郎さぶろう さいてき
よる ひょう穿うが ちて 行在あんざいたつ
衛兵えいへい ねむじゅく して 析声たくせい しずか なり
慨然がいぜん しら げて 幽憤ゆうふんうつ

   天勾践てんこうせんむな しうする なか
   とき范蠡はんれい きにしも あら

行雲こううん うご かず てんまた 忿いか
ちゅう こう たれあらわこと はじむ るの いさお
一門いちもん なお いだつらぬ くの ちゅう
きん 輿 ふたたみなみ して 乾坤けんこん へん
おう せん うらみ

児島高徳は元弘の乱に際し、後醍醐天皇方として兵を挙げ、馬に乗れば縦横に敵を撃ち、馬を下りては檄文を飛ばして士気を奮い起こさせるなど、其の才の奇なること世に比肩する者はなかった。
天皇が讃岐の島に配流される時、途中で救出しようとしたが成らず、やむなく夜陰に乗じて賊中に忍んで行在所に達して見れば、警護の兵は眠ってしまって拍子木の音も止絶えていた。
高徳は桜樹の皮を削り、胸中に秘めた志を十字に託して、 「天莫空勾践 時非無范蠡」 と記した。
折から空は掻き曇り、墨の如き雲は動かず、天も亦怒る如き出逢った。
建武の中興成って、先ず勤皇の魁をなした高徳の功を明らかにする者もないのに、なお一門を挙げて忠誠を尽くし通した。
惜しむらくは、天皇再び吉野に逃れたまい、世の形勢も一変し、天皇吉野に崩じ給うに及んでは、かの桜樹に記した五字二句の詩は、徒に千古の恨みを残す種となってしまった。