ちゅう しん なん はか
生田 鐵石
? 〜 昭和八 (1933)
ちゅう しん なん はか
せっ しゅう西にし 湊川みなとがわほとり
これ てたるものたれすい こう
これたい してもの幾人いくにん るや
ぞく てのみことのりそむ からず
さくけん じて かるるなきもなんあえうら みん
ひょう 西にしのぞ めば塵天ちりてんみなぎ
きたおか賊軍ぞくぐん じゅう まん
わず かに手兵しゅへい なな ひゃくもっあて
血戦けっせん ちゅう ねご
嗚呼忠臣楠子墓

攝州之西湊川濱

建之者誰水府公

對之泣者有幾人

討賊之詔不可負

獻策無聽何敢恨

兵庫西望塵漲天

來犯賊軍五十萬

纔將手兵七百當

血戦意中死是願
七生人闔E國賊

一語丹誠足靖獻

湊川之水有長咽

武庫之山見獨尊

偏悲正気寂然絶

唯憶忠魂凛呼存

勤皇報国渾如忘

世道之非向誰訴

雖欲不泣奈涙霑

嗚呼忠臣楠子墓
なな たび人間じんかんうま れて國賊こくぞくほろぼ さん
いち 丹誠たんせい 靖獻せいけん
みなと がわ みずとこ しえにむせ
やまひととうと きを
ひと えにかな しむせい 寂然せきぜん として ゆるを
唯憶らだおもちゅう こんりん としてそん するを
勤皇きんのう 報国ほうこく すべわす れたるがごと
どう なるたれむか ってかうった えん
かざらんとほっ すといえどなみだ うるお うをいか んせん
ちゅう しん なん はか

「嗚呼忠臣楠子之墓」 と刻まれた墓石が摂津の湊川の畔にある。
この石を建立したのは、徳川光圀公であるが、この墓前で感涙する者は何人いることであろうか。
かって楠公は献策を入れられなかったとき、あえて怨みを述べることなく、賊軍追討の御命令を頂いて湊川へと出陣した。
陣営から兵庫の西を見れば、五十万の賊軍の上げる土ぼこりが天まで舞い上がっている。
楠公はわずかに七百の手兵を率いて、血戦の中での討ち死にを願って、 「七たび人間に生まれて国賊を斃そう」 と忠義の心の溢れることばを捧げて、正季と共に刺し違えて死んだ。
それゆえ湊川乃流れは永遠に楠公を思い咽び、武庫の山はいつまでも楠公の行為を見て忘れることがないのである。
このように昔から楠公の忠魂は明々白掃々として残っているのに、近頃悲しく思うのは、国民の生気が衰えてきていることである。
あたかも勤皇報国の心をすべて忘れてしまっているかのようである。
このように世の中が正しい道から外れて来ていることを誰に向かって訴えたらよいのだろうか。
こう思うにつけ、なくまいと思っても涙が流れてくるのをどうしようもできない、この忠臣楠子の墓である。