もん
菅原 道真
845 〜 903

ひと たびたく らく せられてさい けい りしより
ばん きょう きょう たりきょく せきじょう
ろうわず かに しょく
かん のん ただ しょう せい
ちゅう かい うん うて
がい ぶつ あい うてまん げつ むこ
けん けい しといえど
なん れぞすん もん でて かん
一從謫落在柴荊

萬死兢兢跼蹐情

都府樓纔看瓦色

觀音寺只聽鐘聲

中懐好逐孤雲去

外物相逢滿月迎

此地雖身無檢繋

何爲寸歩出門行

(通 釈)
自分は、身に覚えは毛頭ないにしても、天子の怒りに触れ、大宰府に流された身である。罪を被って柴の戸に明け暮れする身となってからは、罪万死にあたるを思い、戦々兢々とし、広い天地の間にも、身の置き所のない気持ちで謹慎している。
天使の命というより、私自身に逼塞を命じ、屋内にこもっている。それは身の慎み方だと思うため、大宰府の庁舎の高殿も、木の間より見え隠れする屋根の瓦の色を仰ぎ見るだけであり、近くの観音寺も一度も訪れたこととてなく、朝夕打ち鳴らす鐘の音を聞くばかりである。
また自分の胸中に抱き持つ感情も、あの紺碧に浮ぶ一片の白雲が去るように浮世のことは一切忘れ、外部に対しては、満月が無心に万物を照らし迎えるような円満な心である。
名ばかりで実務の何もない閑職に置かれていると言っても、私は大宰府の副長官であり、この身を拘束するものとて一切ないのであるが、どうして寸歩たりとて門を出てよろしかろうか。ただ、ひたすら謹慎しているのである。

○謫落==罪を被り、官位を落とされて配流されること。 貶謫、貶流、左遷などと 同じ意味。
○柴荊==柴やいばらで作った門のある陋屋の意。柴門・荊門。隠者の住居の意もあるが、門を閉じて他と交際せぬ場合にもいう。
○万死== 「罪万死にあたる」 に意。命を投げ出す。
○兢兢==戦戦兢兢として。恐れ慎む。
○跼蹐== 「跼天蹐地」 “跼” は頭が天に触れることをおそれる。 “蹐” は地のくぼむことを恐れて抜き足する、の意。
恐れ懼れるあまり、天地の間に身の置き所もないさま。
○都府楼==大宰府の役所の高殿。都府というのは、中国風に大宰府を都府楼と称するのによる。
○観音寺==普門院清水山観音寺。
○中懐==中情と同じ用法。懐中、つまり胸中に抱き持つ感懐。
○外物==外界の事象のすべて。老壮的な表現。
○倹繋==くくられ、繋がれる。自己を拘束するもの。束縛に同じ。


(解 説)
道真が大宰府に流されていた時の作。
道真が太宰権帥 (ダザイノゴンンオソツ) に任ぜられ、大宰府に左遷されたのは延喜元年 (901) 正月二十五日だった。そして同三年二月二十五日、五十九歳をもって同地に没した。謹慎の生活に入ったのは俗に榎寺といわれる浄妙寺だが、葬られたのは安楽寺であった。
道真が左遷されたのは政権の争いと学派の争いからだった。この事情をさかのぼってみると、道真が絶対の信頼を得たのは宇多天皇だった。すこぶる聡明であられたが、早くより仏教に親しまれ、わずかに三十一歳にして出家され、法皇となられた。そのため、次帝醍醐天皇が即位されたのは十三歳という若さだった。ここに道真の悲劇が胚胎する。
昌泰三年、醍醐天皇は朱雀院に行幸し、親しく法皇と諸事を議せられ、そこで道真を関白にすることも決められた。これに対し道真は固辞し奉った。時に左大臣は藤原時平であり、道真は右大臣であった。
時平は、道真に関白の宣旨が下ると聞いて心中穏やかではない。名門藤原の統領である。関白職を受ける者があるとすれば、藤原の統領である自分と考えるのは当然だった。菅原は有力家系であっても、藤原に比しては大いに遜色がある。道真は、年齢はもちろん学殖人格ともに時平をはるかに抜き、法皇の信も厚かったが、時平としては藤原の面目にかけて、なんとしても、その関白職就任を阻止しなければならなかった。
そこで、 「道真は不軌を企つ者」 と讒した。「醍醐帝を廃し奉り、御弟斉世親王を即位せしめんとする陰謀あり」 としたのである。新王の妃が道真の三女であったことから、これには信憑性があった。
さらに学派の対立者三善清行も、これを好機として 「革命議」 なる一文を草して天皇に奉った。
有力大臣と有力学者の誣告に、ついに天皇は惑わされ、これを信ずるに至る。
道真は、それがすべて虚妄であることを法皇に訴え、法皇もあるべくもないことであるとし、天皇を諌められようとされたが、これを時平側は阻止しようと、宮中の警護を厳重にし、法皇と天皇の対面をさえぎった。法皇としても、すでになす術がない状態となってしまったのである。
事ここに及んでは道真も覚悟を決めるより仕方がない。道真は、
流れゆく 我は水屑と なりはてぬ 君柵 (シガラミ) と なりてとどめよ
と嘆きの一首奉り、また、庭前の梅を見て
東風吹かば 匂おこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
と詠んで、住み慣れた紅梅殿を後にして配所に向かうのである。
道真は梅が好きだった。天神様の境内に梅を植える風も、それから起こっている。
道真には多数の子供があり、すでに男子の多くは官職についていたが、長男高視は土佐、次男景行は越後、三男兼茂は近江、四男淳茂は播磨へと、それぞれ配流された。幼い者は道真に伴われていったが、中には配所で道真に先立って死んだ者もある。
道真は希に見る人格者で、しかも、学才豊かであったから、学問の神として祀られ、京都の北野天満宮をはじめ、天神社は全国で一万を越える。大宰府神社は道真に従って下ったその臣、未酒安行が延喜五年、神殿を建ててその霊を祀ったのに始まり、のち詔勅があって藤原仲平奉行のもと、十九年の歳月をかけて完成した。
また、京都北野神社は天慶五年、多治比文子が託宣を得、右近馬場にその霊を祀ったのに起こり、現在地に鎮座したのは同九年六月であった。
中国でもわが国でも、怨みを抱いて死んだ者を 「横死者」 と言い、これを祀らねば祟りを受けるとの信仰があった。道真に関し、怪異の伝説が付随しているのはそのためである。しかし、道真が不軌を企てたなどとはあり得べくもないことで、今日道真の作と伝えられている和歌四十七首中の一首 「海」 と題する次の詩を見ても、その心を知ることが出来る。
海ならず たたえる水の 底までも 清きこころは 月ぞ照らさん

(鑑 賞)
藤原時平一派の讒言により、大宰府に左遷された道真は、内心、無念の情にかられる時があったに違いない。だが、道真の皇室に対する忠誠の情は厚く、つとめて、その不満を押さえていた。
この詩は、その忠誠の心を表した作品とみていい。「九月十日」 に併せて鑑賞すると、その至情を、さらに強く理解することができる。