(通 釈)
自分は、身に覚えは毛頭ないにしても、天子の怒りに触れ、大宰府に流された身である。罪を被って柴の戸に明け暮れする身となってからは、罪万死にあたるを思い、戦々兢々とし、広い天地の間にも、身の置き所のない気持ちで謹慎している。
天使の命というより、私自身に逼塞を命じ、屋内にこもっている。それは身の慎み方だと思うため、大宰府の庁舎の高殿も、木の間より見え隠れする屋根の瓦の色を仰ぎ見るだけであり、近くの観音寺も一度も訪れたこととてなく、朝夕打ち鳴らす鐘の音を聞くばかりである。
また自分の胸中に抱き持つ感情も、あの紺碧に浮ぶ一片の白雲が去るように浮世のことは一切忘れ、外部に対しては、満月が無心に万物を照らし迎えるような円満な心である。
名ばかりで実務の何もない閑職に置かれていると言っても、私は大宰府の副長官であり、この身を拘束するものとて一切ないのであるが、どうして寸歩たりとて門を出てよろしかろうか。ただ、ひたすら謹慎しているのである。
○謫落==罪を被り、官位を落とされて配流されること。 貶謫、貶流、左遷などと 同じ意味。
○柴荊==柴やいばらで作った門のある陋屋の意。柴門・荊門。隠者の住居の意もあるが、門を閉じて他と交際せぬ場合にもいう。
○万死== 「罪万死にあたる」 に意。命を投げ出す。
○兢兢==戦戦兢兢として。恐れ慎む。
○跼蹐== 「跼天蹐地」 “跼” は頭が天に触れることをおそれる。 “蹐” は地のくぼむことを恐れて抜き足する、の意。
恐れ懼れるあまり、天地の間に身の置き所もないさま。
○都府楼==大宰府の役所の高殿。都府というのは、中国風に大宰府を都府楼と称するのによる。
○観音寺==普門院清水山観音寺。
○中懐==中情と同じ用法。懐中、つまり胸中に抱き持つ感懐。
○外物==外界の事象のすべて。老壮的な表現。
○倹繋==くくられ、繋がれる。自己を拘束するもの。束縛に同じ。
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(解 説)
道真が大宰府に流されていた時の作。
道真が太宰権帥 (ダザイノゴンンオソツ) に任ぜられ、大宰府に左遷されたのは延喜元年 (901)
正月二十五日だった。そして同三年二月二十五日、五十九歳をもって同地に没した。謹慎の生活に入ったのは俗に榎寺といわれる浄妙寺だが、葬られたのは安楽寺であった。
道真が左遷されたのは政権の争いと学派の争いからだった。この事情をさかのぼってみると、道真が絶対の信頼を得たのは宇多天皇だった。すこぶる聡明であられたが、早くより仏教に親しまれ、わずかに三十一歳にして出家され、法皇となられた。そのため、次帝醍醐天皇が即位されたのは十三歳という若さだった。ここに道真の悲劇が胚胎する。
昌泰三年、醍醐天皇は朱雀院に行幸し、親しく法皇と諸事を議せられ、そこで道真を関白にすることも決められた。これに対し道真は固辞し奉った。時に左大臣は藤原時平であり、道真は右大臣であった。
時平は、道真に関白の宣旨が下ると聞いて心中穏やかではない。名門藤原の統領である。関白職を受ける者があるとすれば、藤原の統領である自分と考えるのは当然だった。菅原は有力家系であっても、藤原に比しては大いに遜色がある。道真は、年齢はもちろん学殖人格ともに時平をはるかに抜き、法皇の信も厚かったが、時平としては藤原の面目にかけて、なんとしても、その関白職就任を阻止しなければならなかった。
そこで、 「道真は不軌を企つ者」 と讒した。「醍醐帝を廃し奉り、御弟斉世親王を即位せしめんとする陰謀あり」 としたのである。新王の妃が道真の三女であったことから、これには信憑性があった。
さらに学派の対立者三善清行も、これを好機として 「革命議」 なる一文を草して天皇に奉った。
有力大臣と有力学者の誣告に、ついに天皇は惑わされ、これを信ずるに至る。
道真は、それがすべて虚妄であることを法皇に訴え、法皇もあるべくもないことであるとし、天皇を諌められようとされたが、これを時平側は阻止しようと、宮中の警護を厳重にし、法皇と天皇の対面をさえぎった。法皇としても、すでになす術がない状態となってしまったのである。
事ここに及んでは道真も覚悟を決めるより仕方がない。道真は、
流れゆく 我は水屑と なりはてぬ 君柵
(シガラミ) と なりてとどめよ |
と嘆きの一首奉り、また、庭前の梅を見て
東風吹かば 匂おこせよ
梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ |
と詠んで、住み慣れた紅梅殿を後にして配所に向かうのである。
道真は梅が好きだった。天神様の境内に梅を植える風も、それから起こっている。
道真には多数の子供があり、すでに男子の多くは官職についていたが、長男高視は土佐、次男景行は越後、三男兼茂は近江、四男淳茂は播磨へと、それぞれ配流された。幼い者は道真に伴われていったが、中には配所で道真に先立って死んだ者もある。
道真は希に見る人格者で、しかも、学才豊かであったから、学問の神として祀られ、京都の北野天満宮をはじめ、天神社は全国で一万を越える。大宰府神社は道真に従って下ったその臣、未酒安行が延喜五年、神殿を建ててその霊を祀ったのに始まり、のち詔勅があって藤原仲平奉行のもと、十九年の歳月をかけて完成した。
また、京都北野神社は天慶五年、多治比文子が託宣を得、右近馬場にその霊を祀ったのに起こり、現在地に鎮座したのは同九年六月であった。
中国でもわが国でも、怨みを抱いて死んだ者を 「横死者」 と言い、これを祀らねば祟りを受けるとの信仰があった。道真に関し、怪異の伝説が付随しているのはそのためである。しかし、道真が不軌を企てたなどとはあり得べくもないことで、今日道真の作と伝えられている和歌四十七首中の一首
「海」 と題する次の詩を見ても、その心を知ることが出来る。
海ならず たたえる水の
底までも 清きこころは 月ぞ照らさん |
(鑑 賞)
藤原時平一派の讒言により、大宰府に左遷された道真は、内心、無念の情にかられる時があったに違いない。だが、道真の皇室に対する忠誠の情は厚く、つとめて、その不満を押さえていた。
この詩は、その忠誠の心を表した作品とみていい。「九月十日」 に併せて鑑賞すると、その至情を、さらに強く理解することができる。 |