びやっ たい
佐原 盛純
天保六 (1835) 〜 明治四十一 (1908)

少年しょうねん 団結だんけつ白虎びゃっこ たい
こく 艱難かんなん さいまも
たい ぐん とつ じょ ふう きた
さっ 惨憺さんたんはくじつ くら
へい 喧?けんそう ひゃくらい ふる
きょ ほう 連発れんぱつ きょう うずたか
しゅ じん いて はつ
じゅう おう 奮撃ふんげき して一面いちめん ひら
とき あらずたたかかつ退しりぞ
にはそう つつくち にはくすりふく
腹背ふくはい 皆敵みなてき まさいず くに かんとす
けんつえ つき間行かんこう してきゅう がく
みなみ つるじょうのぞ めば砲煙ほうえん あが
痛哭つうこく なみだ んで彷徨ほうこう
そう しゃ ほろ びぬこと おわ
じゅう ゆう にん はらほふ ってたお
ぎょうここじゅう ゆう しち ねん
これえがこれぶん にして けんつと
ちゅう れつ かつ かく 前日せんじつごと
あっ とうでん おう けん

 

明治戊辰の役に、会津藩の少年達は、奮起団結して白虎隊と名づけ、会津藩の一大事に際し、そのとりでを守 ったのであるが、官軍は突如として風雨のようにはげしく押し寄せてきた。
殺気は天に漲り、昼なお暗いという有 様である。
両軍の打ち鳴らす陣太鼓は百雷の如く響き、打ち抱く大砲の弾丸は雨霞の如く飛来し、屍はたちま ち山をなす状態である。
少年達は決死の覚悟で敵陣に投入し、髪は怒りに燃えて逆立った。
天をも衝く勢いで 縦横無尽に奮戦し、やっと一方に血路を開いた。
しかし戦況は我に不利となり、奮戦しながら退却した。
隊士達 はいずれも身に受けた傷口を繃帯でつつみ、口は気け付薬を含んで、さていずこへ行こうかと見れば、前後皆 敵軍である。
刀を杖によろめきながら、間道づたいにようやく飯盛山へとよじのぼった。
南の方鶴ケ城を望めば砲 火に包まれて黒煙が上がっている。さては落城、我らの希望も消え失せたかと、一同声を上げて泣き、涙を含み 、あたりをさまようしかなかった。
ああ、わが藩もこれで亡びたのだ、我らのつとめもこれまでと、十九人の少年は 皆腹かき切って僵れたのであった。
この事件があって十七年の歳月は流れたが、世の人々今なお俯してその 死を悲しみ、仰いでその忠節をたたえ、これを画にし或いは文にして、盛んに世間に伝えている。
まことにその 忠烈の精神は太陽の如く光かがやき、あたかも当時のあの姿のままである。
かの斉の田横に殉死したという、五 百人の家来の忠義心に劣らぬばかりか、それおも圧倒しているのである。