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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/11/22 (木) 雲井 龍雄

くも たつ (ちん げつ )
雲井龍雄 (1844〜1870) 本姓中島、名は守善 (モリヨシ) 字は居貞、号は枕月、また湖海侠徒ともいった。
幼名は豹吉、やや長じて猪吉・権六といい、成年の後は熊蔵・龍三郎と称した。変名には桂香逸・遠山翠・一木緑などあり、明治元年ごろより雲井龍雄と名乗った。
弘化元年三月二十五日の生まれで、辰年辰月辰日であったので龍雄といったという。
奥州米沢藩士中島ハ右衛門の次男 (兄は虎吉) 。母は屋代氏、名は八百 (ヤオ) 。父は六石三人扶持の下士であった。
八歳、同藩士上泉清次郎に就いて句読を学び、翌年上泉が没して、その師山田蠖堂の門に入った。 上泉がその奇骨を愛し、孟嘗君のようだと言ったので、当時孟嘗君のあだなで通っていたという。
十二歳の時、大いに発憤して勉学に専心し、常に睡魔を防ぐために棍棒をもって頭を殴打し、満頭瘤だらけであったともいう。同時に曽根俊臣にも師事しその子俊虎と莫逆の交わりを結んだ。
安政五年 (1858) 、年十四、藩黌興譲館に学び、傍ら林辺美濃右衛門に刀槍の術を学んだ。
十五歳、母親に死別。十六歳、藩黌での成績抜羣のため、重役から諮問されるの光栄に浴したが、漸く朱子学の空理空論を厭い、簡明で実践を主とした陽明学に興味を抱くようになった。
そこで人々は龍雄を目して、異端と罵り、危険思想を抱くもののように見なしたが、曽根俊臣・山田蠖堂らはその学才を認め、却って彼を激励した。

文久元年 (1861) 、十八歳、同藩士小島居敬 (才助) の養子となり、三年二月、養父病没、家督を継ぎ、九月、丸山庄左衛門の女 (ヨシ) を娶った。妻は龍雄より二歳年長で、嫂の妹であった。
元治二年 (1862) 、二十二歳、正月、藩命を以って江戸に出府、警衛の任に当たった。
四月、改元して慶応元年となり、幕府は長州征伐の命を下した。そのころ、龍雄は安井息軒を訪ね、その学識に傾倒して、門下生となり、半箇年の後には既にその塾頭にあげられた。
しかし翌二年四月には帰国を命ぜられて米沢に帰った。息軒はその志を察し、暴憑を戒め盤根錯節にあって、ますます利器を示すことを期望したという。
米沢に帰った龍雄は、執政の需めに応じて時事を論じ、幕府の施政と人心の向背、米沢藩の取るべき姿勢を陳べた。そして今や政治の舞台は江戸から京都に移り、天下の大勢を究知するには、一日も早く有為の士を京都に送るべきであるとし、不肖ながらその任に当たりたいと願い出て、翌三年一月には京都に出発した。
しかし、その頃には幕府の威信は地におちて、列藩諸士の活躍がめざましく、薩長連合して討幕の計画がねられていた。
十月十四日、将軍慶喜は大政を奉還したが、この日既に討幕の密勅が下っていた。十二月、王政復古の大号令が渙発された。そして新政の局面から幕府の勢力が完全にしめ出された。宮中護衛も薩長二藩の手に委ねられ、多年その任にあった会津・桑名の二藩は、何の予告もなく、その職を奪われ追放された。
かくて憤懣やる方ない会桑二藩の兵及び慶喜の新兵は、薩長との対峙の姿勢となる。薩長は慶喜の大政奉還によって討幕の口実を失うことを恐れ、慶喜の辞官・納土を求める。その結果として起こったのが翌四年正月の鳥羽・伏見の戦いであった。
薩長連合を策したのは土佐の坂本龍馬であり、龍馬の意見をもとに大政奉還をさせたのは後藤象二郎である。
後藤は土佐藩の運命をかけても討幕を阻止しようとする。しかし慶喜は既に朝敵となり、奥羽各藩には会津追討の命が下った。
龍雄は後藤象二郎と親しく、その苦心に同情していたが、鳥羽・伏見の戦いの後は、土佐の藩論がまた一変して、討幕に傾いていくのを見て、もはや薩長の専断を牽制する勢力を西国諸藩の中に求めることは出来ないと考えた。
既に前年十二月、新政府の貢士にあげられていたものの、
「王政維新が国民的統一を完成して、一日も早く欧米列強に劣らぬ近代国家を完成すべきであるのに、このままの推移では幕府に代わって薩長が専断の政治をすることになる。第一、絶対恭順の誠を表明している慶喜に対し、朝敵の悪名をきせる、これ紛れもない陰謀である。口に勤王をとなえるのも、畢竟、彼等が自己の権柄を得ん為の口実に過ぎない」
と考えるようになって、その憤懣は爆発した。
四月、江戸城は明渡され、五月、上野の彰義隊も壊滅した。龍雄は急ぎ京都から江戸を経て米沢に帰り、六月には討薩の檄を草し、奥州連藩抗戦の態勢をとろうとした。が、事態はそれよりも急速に進展して、九月八日には改元して明治元年となり、二十二日、会津若松藩は陥り、奥州連合の策は離反相次いで内部から崩壊してしまった。
米沢藩も既に降伏に決した。間もなく龍雄は藩命で謹慎を命ぜられた。その間宮嶋栗香が新政府との間を奔走して、米沢は意外の寛典に浴し、翌二年六月には龍雄の謹慎も解かれて、興譲館の助教を命ぜられたが、壮志未だ屈せざるものあり、八月、興譲館の助教を辞し、名を遊学に仮て上京、まもなく新設の衆議院に入り議員となった。
これは徴士・貢士の制度の発展したもので、前に貢士であった龍雄にとっては、一種の復職である。太政官の諮問機関で公議をつくすのがその職務で、長官は大原重コ、同輩に森有礼・丸山作楽・加藤弘之・津田信道らの錚々たるメンバーがいた。
しかし、龍雄は常に議論が合わず、妥協もしなかったので、同僚の憎しみを買うことになり、
「雲井は奥州の賊酋ではないか、この議場に席を与えたことが、そもそも誤りではなかったか」
という批判が起こり、ついに衆議院を去らねばならなくなった。
その内諭を以って退院を命ぜられた時作ったのが、かの 「題衆議院壁」 の一首で、この頃初めて枕月と号し、しばらく閑日月を楽しみ、 「沾酒休沾澹泊酒」 の詩も出来た。
旧師安井息軒のもとへもしばしば出入りし、代講などもつとめた。
吉野金陵・浅田宗伯と交わりを結ぶようになったのも、尾張の僧大俊と契るに至ったのも、ほぼその頃であった。大俊は俗姓鵜飼、号を碧窓また独正堂といった。織田信長を諌めて死んだ平手政秀の後裔であるという。
龍雄は密かに同志を集めて兵を挙げようと考え、上書して 「諸藩脱籍半側の徒を鎮撫し、各々自ら帰順せしめん」 と請うたが、許されなかった。
たまたま幕府の士三枝采之丞というものあり、偽って僧となり、浄月坊と称していたが、密かに龍雄を訪い、京阪の間、物議囂然、禍乱の起ころうとする形勢なるを告げた。龍雄は喜び、浄月坊に京阪の様子を探らせた。
三年正月、浄月坊が帰って 「西国の物情騒然沸くが如く、徴収の如きは内訌が起こりそうだ。同志数十人を得た」 と報じたので、時期到れりとして、 「この樹に乗じ兵を挙げて官軍に抗したならば、西国諸藩の乱を思う者、必ず起つに相違ない。乃ち東西応援せば、事成るべし」 とさっそく帰順部曲点検所の看板を芝二本榎の上行寺・円真寺の山門にかかげ、同志を集めた。
曽て戊辰の際兄弟の契りを結んだ原直鉄以下四十余人、奥羽の諸藩士の遥かに相応ずるものも頗る多かった。
龍雄はこれを一団として新政府に売り込み、軍装の貸与を受けた上で、一時に内部から蜂起する計画であった。
しかしこれは当然政府の疑惑を招き、調査の手をすすめ、五月には龍雄を米沢に押送した。
米沢に帰された龍雄は、なおも書を作って同志に送り、再挙の事を約した。しかし、在京の同志江秋水からの密書が官憲の手に押収されたことから、反乱の証拠十分であるとして、八月東京に檻送され、十二月二十八日、小塚原の刑場に梟首された。時に年二十七。
連累処刑された者数十人。龍雄が書類を焼き捨てたために断罪を免れた者は更に多数であったろうという。
明治二十二年 (1889) 三月十一日、憲法発布の大赦によって、内乱に関する罪は許された。薩長の藩閥に抵抗して非命に斃れた龍雄も、いわば維新劇の一犠牲者というべきである。
雲井龍雄の伝については、安藤英男氏の 「雲井龍雄詩伝」 が最も詳しく、作品集としては、桜井美成編 「雲井詩集」 、麻績斐・桜井美成共編 「雲井龍雄全集」 などがある。
龍雄の初志が徳川氏の寃を雪ぎ、藩祖の業を復するにあったことはいうまでもない。たとい王師に抗したとしても、叛賊の名を与えるのは酷である。河井縫之助らと同じく、維新劇悲劇の立役者という所である。
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ