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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/11/17 (土) 雨 中 觀 海 棠 有 感

ちゅう かい どうかん
くも たつ (ちん げつ )
緑濕紅沈悄無力

恰是楊妃啼後色

花容如愁何所愁

我對花問花黙黙

憶昔濱殿殿南莊

把酒賦詩賞海棠

當時同盟今四散

或爲魯連或張良

不將水火挫其志

往往暴憑就死地

死者函首送賊庭

生者海島猶唱義

嗟吾赤城僅脱身

再擧無策久逡巡

今對此花思往事

血涙和雨紅濕巾
みどりうるおくれないしずしょう としてちから
あたかよう てい いろ
よう うれ うるがごとなんうれ うるところ
われ はなたい して えばはなもく もく
おもむかし ひん 殿でん 殿でん なんそう
さけ してかい どうしょう
とう どう めい いま もにさん
あるい れんあるいちょう りょう
すい つてこころざしくじ かず
おう おう ぼう ひょう
しゃこうべかん にしてぞく ていおく られ
せい じゃかい とうなお との
ああ われ せき じょう わず かにだつ
さい きょ さく ひさ しくしゅん じゅん
いま はなたい しておう おも えば
けつ るい あめ してくれない きんうるお
語 釈

○紅沈==花が重たげに低く垂れているのをいう。
○花容==花の姿。
○黙黙==だまって何もいわないこと。
○濱殿==東京の芝にあった米沢藩の下屋敷。
○把酒賦詩==酒をくみかわし詩を作る。
○魯連==戦国時代の斉の高士魯仲連をいう。
伝は史記巻八十三に見える。人となり奇偉、画策を好んで、而も仕えず、高節を持し、人の難を排し、粉を解くを喜んだ。嘗て趙に遊んだ時、たまたま秦は白起をして邯鄲を囲ませた。諸侯兵のは秦を恐れて趙を救わない。魏の安釐王は客将新垣衍をして、趙王に説いて、秦を帝とせんと請えば秦の囲みを解くことが出来ようといわせた。魯仲連は新垣衍に面して、 「秦は礼義をすて、首功を上ぶ国である。秦もし天下に帝たらば、連は東海を蹈んで死するあるのみ。今魏がかくの如きことを念うのは、未だ秦を帝とするの害を知らぬためである」 といい、その害を極陳した。そこで新垣衍も漸く悟り、 「自分も二度と秦を帝とするということは言うまい」 と誓った。その間に魏の信陵君が兵を率いて趙を救い、秦を撃ったので、秦軍は囲みを解いて引き揚げた。後、田単が斉王に請うて魯仲連に爵位を贈ろうとしたが、魯連は海上に遁れ、 「吾富貴にして人にクツせんより、寧ろ貧賤にして世を軽んじ志を肆にせん」 と、ついに隠れ終わった。
詩は薩長の新政府に仕進を求めなかった人々に例えた。
○張良==漢の高祖の功臣三傑の一人。もと韓の相家に生まれ、嘗て韓のために仇を報ぜんとして、力士をやとい、鉄椎を以って秦の始皇帝を博浪沙に搏撃して成らず、去って下ヒ (今の江蘇省?県) に隠れ、?上の老人から兵法を授けられ、後、漢の高祖に従って秦を亡ぼした。
詩は、龍雄と同じく、薩長政府を倒し、政界への革新を図ろうと考えている同志に例えた。
○暴憑==暴虎馮河の略。 「憑」 は 「馮」 に通じて用いる。虎を手打ちにして黄河をかち渡りすることで、無謀な冒険をいう。
○賊庭==薩長政府の本拠をさす。龍雄の 「討薩檄」 に、 「薩賊の幕府と相軋るや」 「薩賊、多年譎詐万端」 「薩賊専権以来」 「薩賊の兵」 などの語が頻見する。長州は龍雄が一時、薩・長を離間させようとしたこともあるらくらいで、表面にはそう出さない。
○海島==北海道に逃れて五稜郭に立てこもった榎本武揚・大鳥圭介・人見勝 等を指すのであろう。
○赤城僅脱身==前年八月、上毛の地に潜行したとき、同行の羽倉鋼三郎 (林鶴梁の子) のすすめにより、上州沼田に出ようとして、十八日、赤城山下の須賀村から辰沢に向かう途中、前橋・小幡・沼田 の三藩の伏兵に囲まれ、同志羽倉鋼三郎・桜正坊隆邦・屋代由平らは銃弾に斃れ、龍雄は原直銕らと山中に逃れ、小川温泉に出、尾瀬・檜枝枝 (ヒノエマタ) を経て会津に走った。その時のことをさす。
殉難三士の碑は今の群馬県利根郡片品村字須賀川に 「三烈士の碑」 として存している。
○逡巡==ためらい、進まないこと。
○巾==てぬぐい、えりまき。

題 意
慷慨家列伝によれば、 「この詩は、己巳三月雨中観海棠有感作」 とあるから、己巳即ち明治二年の作であると思われる。
前年奥州越列藩の処分も決定され、米沢藩は当主斉憲の隠居、四万石減封となった。しかし二年一月下旬、薩・長・土・肥の四藩は版籍奉還を奏請した。新政府の方針としては、そこまで徹底させなければ、王政復古の実効があがらず、天下統制を完全にすることが出来ないからである。
新政府の中心勢力をなす四藩の奏請に、全国的なムードを盛り上げる意味があったことはいうまでもない。
米沢藩では、二月一日、謹慎中の龍雄を招いて、封建・郡県の利害得失について下問し、龍雄は二月四日、心血を吐露して、その奏答文を提出した。しかし朝廷では四藩の奏請が直ちに聴許され、これに傚う各藩が相次いだので、米沢藩も大勢に従って、三月十四日、 「建土返上の建白書」 として太政官に提出した。
藩論が既に奉還に決したことを知って、龍雄は憤激に堪えず、 「贈上杉家執政」 「述懐」 書感」 等の諸篇を賦している。
この詩もおそらくその直後の作で、雨中の海棠にことよせて、大局の既に去り、己の志の伸べ難いことを歎じたものである。
通 釈
雨に緑の葉はうるおい、紅の花は重たげに垂れて、悄然として力なげに見える。あたかも美人楊貴妃の涙に濡れた顔を見るようである。
鼻緒姿はいかにも愁いに満ちているが、何を愁えているのであろうか。花にたずねてみても、花は勿論黙々として答えない。
それにつけても思い出すのは芝のお浜屋敷の別荘で、同志と酒をくみ詩を作りながら、共に海棠を賞した時のことである。
当時の同盟の士は今は四方に散って、或いは魯仲連の如く東海にのがれ、或いは張良の如く地方に潜伏している。
もとより水火を恐れてその志をくじく者ではない。激昂のあまりかえって死地に就いたものである。死者は首は函につめて薩賊の本拠に送られ、生者はいまなお蝦夷地にのがれ海島に義をとなえている。
それにひきかえ、自分は赤城山の麓ですでに捕らえられる所を纔に身を以ってのがれ、今に及んで再挙の方策もなく、久しくぐずぐずして日を送っている有様である。
今この海棠の花に向かい往事を追懐すると、血涙は雨と一つになって紅く襟を濡らすのである。
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ