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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/09/27 (木) 下 筑 後 河 過 菊 地 正 觀 公 戰 處 感 而 有 作

ちく がわくだきく せい かん こうせん しょかん じてさく
らい のぼる (さん よう)
文政之元十一月
吾下筑水?舟筏
水流如箭萬雷吼
過之使人竪毛髪
居民何記正平際
行客長思己亥歳
當時國賊擅鴟張
七道望風助豺狼
勤王諸將前後歿
西陲僅存臣武光
遺詔哀痛猶在耳
擁護龍種同生死
大擧來犯彼何人
誓剪滅之報天子
河亂軍聲代銜枚
刀戟相摩八千師
馬傷冑破気u奮
斬敵取冑奪馬騎
被箭如蝟目眥裂
六萬賊軍終挫折
歸來河水笑洗刀
血迸奔湍噴紅雪
四世全節誰儔侶
九國逡巡征西府
棣萼未肯向北風
殉國劍傳自乃父
嘗卻明使壯本朝
豈與恭獻同日語
丈夫要貴知順逆
少貳大友何狗鼠
河流滔滔去不還
遥望肥嶺嚮南雲
千載姦黨骨亦朽
獨有苦節傳芳芬
聊弔鬼雄歌長句
猶覺河聲激餘怒
ぶん せいげん じゅう いち がつ
われ ちく すいくだ つてしゅう ばつやと
すい りゅう ごとばん らい
これ ぐればひと をしてもう はつ てしむ
きょ みん なん せんしょう へいさい
こう かく とこしな えにおも がいとし
とう こく ぞく ちょうほしいまま にし
しち どう かぜのぞ んでさい ろうたす
きん おうしょ しょうぜん 歿ぼつ
西せい すい わず かにそんしん たけ みつ
しょう あい つう なお みみ
りゅう しゅよう してせい おな じうせん
たい きょう きたおかかれ なん びと
ちか つてこれせん めつ しててん むく いん
かわぐん せいみだ してかん ばいかわ
とう げき あい はつ せんいくさ
うま きず つきかぶと やぶ れて uます ます ふる
てきかぶとうまうば つて
こうむ ることごともく
ろく まんぞく ぐん つい せつ
らい すいわら つてかたなあら えば
ほん たんほとば つてこう せつ
せいぜん せつ たれちゅう りょ せん
きゅう こく しゅん じゅんせい 西せい
てい がく いまあえほく ふうむか わず
じゅん こくけんだい よりつと
かつみん 使しりぞ けてほん ちょうさか んにす
あに きょう けんどう じつかた らんや
じょう ようじゅん ぎゃく るをたつと
しょう おう とも なん
りゅう とう とう つてかえ らず
はるかのぞ れいなん うんむか うを
せん ざい かん とう ほね また
ひと せつほう ふんつた うる
いささ ゆうとむろ うてちょう うた えば
なお おぼ せい げき するを
語 釈

○筑後河==九重山に源を発した玖珠 (クス) と阿蘇火山から発する大山との二川が日田盆地で合流して三隅川となり、大分・福岡の県境をへて筑紫平野に出て筑後川と呼ばれ、有明海にそそぐ。別名筑紫太郎。全長143キロメートル、九州第一の大河。
○正觀公==菊池武光の法諡。武光は武時の第九子 (或いはいう、第十子) 、兄武重の死後、その弟武士 (タケヒト) が肥後守護職をつぎ菊池城主となったが、病弱のため数年で家督を武光に譲った。
正平三年 (1348) 正月、征征将軍懐良親王を迎えてから、連年、一色・少弐・大友と兵を交え、しばしばこれらに勝った。八年二月、筑前針擢原 (ハリスルバル) の戦いに九州探題一色範氏 (ノリウジ) を撃破し、十年、肥前・豊後の国府を占領、十三年十一月、日向に出征して畠山直顕を穆佐 (ムカサ) 城に攻めて陥れた。
しかるに一時官軍についていた豊後の大友氏時と筑前の少弐頼尚は機を見て官軍に叛き、肥後に侵入を企てた。
このことを探知した武光が、敵を一歩もわが領内に入れぬと、十四年七月、懐良親王を奉じ、筑後川の線に出撃した。
先ずその南岸高良山・柳坂・水縄 (みなう) (一名耳納山) にかけて布陣し、頼尚は杜 (ネズリ) の渡を前にして陣取り、その渡河をみすまして襲撃するつもりであったが、武光の軍の気勢の盛んなのを見て、急に兵を引き、河北数キロ、大保原に陣を移した。
かくて八月六日夜半の渡河、七日払暁の襲撃で戦端は開始された。
この時の武光奮戦の状は詩中に述べる通り、親王も身に三創を被られる有様、敵の大将 (少弐・大友) は打ちもらしたけれども、以来官軍は大いに振るい、十六年七月には大宰府を占領して親王の御座所をここに移すことが出来た。
十七年九月、斯波氏経と少弐・大友との連合軍を筑前長原に撃破し、氏経を周防に走らせ、足利幕府を震え上がらせた。
文中元年 (1372) 今川貞世の大軍を高良山に迎え、その侵入を拒いでいたが、翌二年十一月十六日卒した。
隅府町正観寺に葬った。
今は太刀洗公園に銅像が建っているが、太刀を洗って再び乗馬しようとする直前の勇姿を示したもので、昭和十二年十一月の建設にかかる。
○文政==仁孝天皇の年号。元年 (1818) 、山陽三十九歳。
○筑水==筑後川
○?舟筏==舟をやとう。
○萬雷吼==河声の轟くさまの形容。吼は猛獣の怒りさけぶのにいう。
○竪毛髪==身の毛のよだつ。
○居民==その土地に住んでいる人。
○何記==どうして記憶していようか。
○正平際==正平十四年の昔。際はそのおり。
○行客==旅人。ここでは山陽自身をいう。
○長思==遥かに当時を追懐する。
○己亥歳==正平十四年は己亥 (ツチノトイ) の歳にあたる。
○國賊==足利氏をさす。尊氏は前年すでに没して、この時は義詮が将軍であった。
○鴟張==鴟はふくろう。夜間に出て他の鳥を捕らえて食う悪鳥。転じて悪者にたとえる。鴟張とは、ふくろうが翼を張ったように、悪人の威勢の強く悍きことにいった。
○望風==その威勢を見てこれになびくこと。
○豺狼==豺はやまいぬ、狼はおおかみ。悪者に例える。ここは足利氏をいう。
○勤王諸將==楠木正成・新田義貞・名和長年。北畠顕家 などを指す。
○西陲==西のはて、九州を指す。陲は片田舎、辺鄙な土地。
○遺詔==延元四年 (1339) 八月十六日、後醍醐天皇が吉野の行宮で崩御される時の口勅。
太平記巻二十一に記す所の大略によれば、
「只生生世世の執念ともなるべきは、朝敵を悉く滅ぼして四海を大平ならしめんと思ふばかりなり。・・・・・・玉骨は縦ひ南山の苔にうづむるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。若し命を背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣にあらじ」
と仰せられ、法華経を片手に、右に剣を按じて崩御されたという。
○擁護==擁はいだく、護はまもる。奉載する意。
○龍種==天子を龍に例える所から、皇子を龍種という。正平三年正月、征西将軍懐良親王が、海路はるばる薩摩方面から、肥後の宇土・御船を経て菊池においでになってから、武光が非常な感激な感激を以って宮を奉載し四方に奮闘する。
○大擧==大兵をもって。
○剪滅==剪滅¥は切る、滅はほろぼす
○代銜枚==枚は箸のようなもので、口にくわえさせ、両端に紐をつけて首の後ろに結ぶ。進軍中、話を禁ずるため、また馬の鳴くのを防ぐため。
銜は口にくわえること。代はその代わりになること。
○刀戟==かたなとほこ。
○相摩==互いにふれあう。
○八千師==師は軍隊。武光麾下の兵八千。
○馬傷冑破==武光の馬は傷を負い冑は破れた。
○斬敵==この時、悍馬を躍らせて飛び込んできた敵の武将少弐武藤と格闘してその首を取り、ついでに、冑も馬も敵のものを奪った。
○蝟==はりねずみ
○目眥裂==この時武光は小鬢に弐太刀を受け、鬢は切れて被髪面を掩い、目尻は裂けて血を含んだような凄まじい形相であったという。
○挫折==くじけおれる。敗北して遁走したのをいう。
○奔湍==うずまき流れるはや瀬。
○噴紅雪==赤い雪を吹き散らした。
○四世==武時〜武光〜武政〜武朝 の四代をいう。
○全節==節義を全うしたこと。
○誰儔侶==儔侶はなかま、ともがら。誰も外に匹敵するものはあるまい。比類を絶しているの意。
○九國==九州。筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隈の西海道の九つ。
○逡巡==しりごみする。
○征西府==延元三年 (1338) 、懐良親王を征西将軍に任ぜられたので、その役所を征西府といった。
○棣萼==兄弟をいう。棠棣は李の一種、にわざくら。萼ははなぶさ。はなのうてな。花瓣と萼と保持するように、兄弟も互いに助け合うのに比する。武光の兄弟武重・武敏・、子武政とその弟良政らをさしていう。
○北風==足利氏のたてた北朝をさす。
○殉國劍==国難に一命を捨てるための剣。その精神を剣であらわした。刀は武士の魂といわれたから。
○乃父==父。武時をいう。
武時 (1272〜1333) は入道して寂阿という。後醍醐天皇が名和長年に迎えられて伯耆の船上山に行幸の際、いち早く駆けつけ錦旗を賜った。元弘三年、鎮西探題北条英時と博多櫛田浜に戦って討ち死にした。この時に共に討ち死にしようとした嫡子武重を戒めて後事を嘱し国に還した。その精神は、武重・頼隆・武吉。武敏・武光らの子供達に受け継がれた。
○嘗卻明使==明史、日本伝に 「太祖の洪武二年 (1369) 三月、行人楊載を遣はし、詰るに入寇 (所謂倭寇) のことを以ってし、且つ謂ふ 『朝すべくば、即ち来廷せよ。不 (しからず) れば即ち兵を修めて自ら固うせよ。尚必ず冠盗を為さば、即ち将に命じ、徂き征せんのみ。王其れ之を図れ』 と、日本王良懐 (懐良の誤り) 、命を奉ぜず」 とある。政西府を日本王政府と誤認したらしいが、倭寇に悩まされ、これを禁じることを請いながら、書辞が無礼なので、武光は直ちに使者を追い返した。
○恭獻==足利三代将軍義満 (1358〜1408) は金閣寺を建てたりした自分の贅沢の酬いで、経済的に困り、明との貿易の有利なのを聞いて、応永八年 (1401) 、使者を遣わし、持たせた手紙に日本国王源道義と書いた。翌年、明の使者いが来て、その帰る時持たせた手紙には更に臣の一字を加え、 「日本国王臣源道義」 と書いた。そして年号も明の永楽を用い、見苦しいまでにその機嫌を取りながら、盛んに武器・家具などをおくり、永楽銭を稼いで国内に通用させた。明の封爵を受け、歿後永楽六年 (応永十五年 1408) 、共獻と諡された。その僭上失態、国の体面を傷つけた最たるものである。
○同日語==一緒に論ずる。 「豈同日語」 は懸隔甚だしく、とても一緒に論ずることは出来ないの意。
○丈夫==ますらお。男児。
○順逆==名分の正しいものと正しくないものをいう。
○少貳大友==武光の時も少弐頼尚・大友氏時が裏切っている。そのため筑後川の戦いが行われた。
○狗鼠==狗は犬、鼠はねずみ。いやしいものを罵っていう。犬畜生という程度の意。
○滔滔==水の盛んに流れる様。
○肥嶺==肥後の連山。菊池氏の拠る所。
○南雲==南方の雲。前の北風に対して南朝に例えた。
○千載==千年。千歳と音通。
○姦黨==少弐・大友らを指す。
○芳芬==香ばしい気。名声にたとえる。
○鬼雄==死んだ英雄。武光を指す。
○長句==長編の詩。
○激餘怒==餘怒は今日まで残っている武光の怒り。激は一層激しくする。

題 意

この詩は、山陽が文政元年 (1818) 、九州旅行の際、豊後の日田から筑後川を下り、菊地武光の戦った場所を通り、感慨を述べたものである。
筑後川の戦いは、正平十四年 (1359) 、八月、征西将軍懐良 (カネナガ) 親王を奉じた菊地武光・五条頼元らが、筑前守護少弐頼尚を破ったものである。
三井郡味坂村 (今の福岡県三井郡小郡町付近) がその古戦場で、今飛行場のある太刀洗は武光が愛刀の血糊を洗った場所と言われているが、実際と少し距っているという。
この戦いで南風競わざるの時、官軍の勢いは復び九州に振るい、十六年八月、宮方は大宰府を占領、以後十二年間、官軍の指揮をとった。

通 釈
(第一解)
文政元年十一月、私は舟をやとって筑後川を下った。その流れの早いことは箭の飛ぶが如く、水声は轟々として万雷の一時に吼ゆるに似て、ここを通過する人に身の毛のよだつ思いをさせる凄さである。
(第二解)
無学な土地の住民達は知りもしないであろうが、ここは、正平の昔、菊地武光奮戦の場所である。
私は旅の身ながら遥かに己亥 (正平十四年) の年を追懐せざるを得ないのであった。
(第三解)
当時は国賊 (足利義詮) が鴟梟の翼を張って暴威を発揮するが如く、したいがままの凶逆をつくしていたし、近畿はおろか東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道 (日本全国) その威勢を恐れ、風を望んで豺狼 (足利) の味方となって、これを助けたのである。
勤王の諸将 (楠木正成・新田義貞・名和長年・北畠顕家ら) は前後相次いで没し、西の果てに僅かに臣武光を残すばかりとなった。
(第四解)
思えば後醍醐天皇崩御の際の詔が、悲しくも痛ましく、今なお耳に残っており、なんとしても皇子懐良 (カネナガ) 親王をお護りして賊を討ち、あくまで生死を共にする決意をしたのである。
たまたま大軍を催して来て犯す者がある。何者ぞとみれば、裏切り者の少弐頼尚 (ヨリヒサ) である。武光は怒り心頭に発し、さらばこれを剪滅して皇恩に報い奉るのはこの時ぞと決定した。 (彼我兵力の多寡は眼中になかった)
(第五解)
(八月六日の夜、筑後川に沿うて軍を進めた) 河声は軍馬の響きをかき乱して、枚を銜む必要もない。これに乗じ、敵に気取られぬうちに打ち渡り、天明と共にわが八千の精兵は敵陣になだれ込んだ。
忽ち刀と戟と互いに打ち合う一台修羅場と変じ、武光も馬は傷つき冑はやぶれたが、勇気凛々としてますますふるい、敵将少弐武藤を斬って冑をとり、馬を奪って騎り、まっしぐらに頼尚の本陣に切り込んだ。 (戦いは実に卯の刻から酉の刻に至り、頼尚の子頼泰を生捕りにし、忠資及び裨将四人を斬った。敵の死傷三千二百、味方も千八百人に及んだというから凄い。)
(第六解)
箭が全身にささって、まるではりねずみの如く、眼尻は張り裂けて血を含む形相、さすが少弐勢六万の賊軍もたじたじとなり、東方に敗走した。
戦い終わり、帰って来て河水に刀を洗うと、血はうずまく激流にほとばしって、時ならぬ紅雪を噴いた。
(第七解)
それにしても菊地氏の忠節は武光だけではない。父武時・子武政・孫武朝と、四代に亘って忠節を全うした。外にこれに比類するものがあろうか。これによって九州は懐良親王の征西府の威風におされて逡巡して、容易に足利氏に協力できなかったのである。
武光の兄弟も、武重といい、武敏といい、誰一人として北朝についた者はなく、国難に殉ずる精神 (剣) は、共に父武時から伝えられていたのである。
正平二十三年、武光は明の太祖が我が征西府に送った書状の無礼なのを見て使者を追い返し、日本の威光と体面を発揮したことがあった。かの足利義満が明に対して臣と称し、恭献王の封冊を受けた恥知らずの行為とは、雲泥の相違、同日の段ではない。
およそ男児として大切なのは、物事の順逆を辧えることを貴ぶということである。逆賊足利氏にくみした少弐・大友の如きは全く犬畜生といってよろしい。
(第八解)
さて、河水は滔々と流れ去って再び帰らぬように、歳月もいつしか遠く隔たってしまったとはいえ、遥かに肥後の連山が南方の雲間に聳えているのを見ると、当時、菊地氏が一族挙げて南朝のために尽くした忠節を連想させるものがある。
千年を経て少弐・大友らの姦賊の一味は、その骨と共に朽ち果ててしまったが、これにひきかえ、菊地氏の苦節は、その名も芳しく今に伝えられているのである。
(第九解)
古今を追懐して聊か英雄武光の霊魂を慰めようと、この長詩を歌えば、河声はいまなお武光が正平の余憤をもらしているかの如く、一段と激しく響くのである。
余 説

第一解・第二解で静かに当時を追懐し、第三解・第四解で次第にその高まりを見せ、第五解、第六解の銭湯の場面に至って頂点に達し、激越凄壮を極め、第七解・第八解は一転して議論に入り、節義の思想を鼓舞し、第九解に再び静かな景状にかえり、己の感激を伝え全篇を収束し、無限の余韻を残している。正に一大名曲を聴くが如き想いがする。
山陽の詩は最も日本的である。和臭という意味ではない。日本人の誇りに満ち、日本人の魂を揺さぶる詩という意味である。
唐人の口真似をした詩ではない。千篇一律の白雲明月流とは違った、個性味と情緒の豊かな詩である。そして最も男性的ですらある。これは山陽の詩の愛好せられる所以だと思う。

『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ