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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/09/25 (火) 阿 部 野


ひろ けん (きょく そう )

こう ぼう せん えい ゆう かしむ

とう りゅう そう ゆめ すでむな

わんとほつなん ちょう ちゅう はか

きょう あきたお でんかぜ
興亡千古泣英雄

虎闘龍爭夢已空

欲問南朝忠義墓

蕎花秋仆野田風
語 釈

○泣英雄==後人たる我々が史上の英雄の事績を追憶し、これに感動して涙を流す意。
○南朝==吉野朝ともいう。延元元年、九州から上洛した足利尊氏は後醍醐天皇を花山院に幽閉したが、間もなく天皇は神器を奉じて吉野に潜幸せられ、以来、後村上・長慶・後亀山の三天皇まで吉野の賀名生 (アノウ) に行在所があり、元中九年 (1392) 北朝の後小松天皇に譲位されるまでの五十七年間、朝廷のここに在ったのを南朝という。
○忠義墓==忠臣の墓
○蕎花==そばの花
○秋仆==これは奇句。秋が仆れるのではない。野田をわたる秋風に蕎花が吹き仆されるのである。
蕎花の茎は血を染めたように赤い。古戦場に作られた蕎麦が風にたおれて、赤い茎が乱れているさまが眼に浮かぶ。
○野田==田野と同じ。

題 意
阿部野は摂津国阿部野、今の大阪市南部の阿倍野区上町台地にあり、住宅地北畠・帝塚山一帯。台地の西端を昔の熊野街道が通り、付近に南朝の忠臣北畠顕家を祭る阿部野神社がある。
北畠顕家 (1318〜1338) は親房の長子で、文保二年の生まれ、元応・嘉暦の間、従五位に叙し、兼侍従左近衛少将、元弘元年 (1331) 参議左近衛中将となる。時に年十四。三年 (十六歳) 陸奥守となり、義良親王を奉じ、陸奥・出羽の地を鎮め、建武元年 (1334) 功により、従二位にすすめられた。
二年足利尊氏の叛くや、鎮守府将軍を兼ね、新田義貞とこれを挟撃しようとして、延元元年 (1336) 、鎌倉に至れば、尊氏はすでに義貞を破って西上していたので、後を追うて、昼夜兼行、近江に到り、義貞らと力をあわせて尊氏の軍を園城寺に破り、粟田口から火を放って進んだ。
尊氏は敵し得ず、筑紫に敗走した。天皇は叡山より還幸せられ、顕家は権中納言・鎮守府大将軍に拝せられ、陸奥・出羽・常陸・下野の四国を管領、東国の経営に当った。
しかるに五月、尊氏は四国の大軍を率いて京都に攻め上り、楠木正成は湊川に戦死し、天皇は再び叡山に行幸せられた。
尊氏が京都において勢いを得るや、賊徒は奥州にも蜂起したが、顕家はよくこれを鎮圧し、二年、結城宗広らと西上し、足利義詮を鎌倉に破りこれを走らせ、三年正月、東海道を攻め上り、美濃から路を転じて伊勢・伊賀を経て奈良に入った。沿道の賊軍は追跡して颯到、尊氏また高師泰を遣わし黒地河に拒がせたので、顕家は前後に敵を受け、且つ長途の行軍に兵も疲れていたので、般若野の戦いについに利あらず、河内に走り、纔に余平を収めて男山に拠った。
尊氏は新たに高師直をして之を攻撃させ、顕家は嶮によって能く之を拒いだが、賊の大軍の城を囲み援路を絶つに至って、城を出て摂津の安陪野に戦いまた大敗した。
そこで囲みをつき吉野に走ろうとして、和泉堺浦に転戦し、ついに石津浜で陣没した。時に五月二十二日、年二十一。
天皇は痛措して従一位右大臣を贈られた。阿部野は今は阿倍野と書かれる。安部野神社には顕家とその父親房とが祀られている。
通 釈
史上の盛衰興亡は千古に英雄を悲しませるものである。かって龍虎の闘争をくりひろげた戦跡も、今は空しく一場の夢に帰して、それと知るべきよすがもない。
私はここ阿部野に南朝の忠臣顕家卿の墓を訪ねるつもりでやって来たのであるが、秋風に野田の蕎麦が吹き仆されたあたりの光景には、一段と寂寥の感を催したことであった。
余 説

作者は勤王の志の厚かった人であるから、忠臣戦死の地を訪れて、殊に一段の感慨をそそられたに相違ない。

『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ