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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/08/15 (水) 紀 事


やな がわ もう (せい がん)

とう ねんだい ひょう りょう

ふう うんしつ いておこ

こん にち がい きんのぞあた わずんば

せい きょ しょう
當年乃祖気憑陵

叱咤風雲巻地興

今日不能除外釁

征夷二字是虚稱
語 釈

○當年==そのことのあった年。そのかみ。昔年。
慶長八年 (1603) 二月、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いた年をさす。
○乃祖==なんじの祖先。将軍の先祖家康を指す。
○気憑陵==気負いたち勢いを頼んで人にせまる事。
○叱咤==大声に叱る。
○巻地興==勢いの盛んなことにいう。
○外釁==釁はすきま。外釁は外国のつけこむすきま。
○征夷二字==征夷大将軍の二字。征夷大将軍は朝廷から征夷の命を受けた大将軍。養老令には 「一軍をすべる者が将軍、三軍をするべき者が征夷大将軍に任ぜられた。ついで十六年坂上田村麻呂が、弘仁四年 (813) 、文室 (フンヤ) 綿麻呂がそれぞれ任命されたのを最後に廃絶した。その後、三百余年を経て、建久三年 (1192) 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、奥州の藤原氏を討ったが、二年後には辞職しているから、まだ幕府を開くことと直接の結びつきはなかった。しかし二代目頼家以後は頼朝の例に倣って代々征夷大将軍に任ぜられた。
足利尊氏や徳川家康が熱望したのは、その名義を得て、覇権の正当性を示そうとしたものに外ならない。
幕末ではその政権を取り上げるために、征夷は攘夷に限ろうとし、慶喜が宗家を相続しても、征夷大将軍となることは、なかなか許されず、半年近くに及んだ。それは武家の棟梁たることは委任するが、攘夷の職は辞退させる意味であった。
星岩のこの詩は、そうした考えの先蹤をなすものである。慶応三年 (1867) の王政復古で、この職は廃止された。

通 釈
当年徳川氏の祖家康は意気頗る盛んで、風雲に乗じ地を巻く勢いで見を興し、征夷大将軍となり幕府を開いた。
その子孫たるものが、今日に及んで外患を除き得ないようでは、征夷の二字はその実の無い虚称となる。
(征夷大将軍というからには、その名の通り外患を撃攘すべきである。)
題 意

安政五年八月、井伊直弼は老中間部詮勝を上洛させた。条約の勅許を奏請すると共に水戸に下された密勅は勅諚とは見做し難いとして、その関係者を徹底的に取り調べるためであった。安政の大獄の発端である。
星巌は間部に詩を教えた縁故があり、大津に出迎え死を以って諌めようとして、あらかじめ紀事を二十五首作り、別に捧呈の志を述べた二絶句を付けて待ち受けていた。
しかし間部は直弼の抜擢に感激し、志士の逮捕について 「悪者どもは一呑に仕るべし」 と揚言していたのだから、危険この上なしという所であった。しかるに星巌は間部の上京前に急逝したので、逮捕を免れたのである。 「死に上手」 と言われたのはその為である。

余 説

この詩は 「征夷大将軍の職は返上しろ」 というにひとしい。もしこれが間部の手に渡っていたなら、それだけでも星巌の捕縛は免れなかったに相違ない。星巌もその危険は十分感じていただろうが、それだけに作者の止むに止まれぬ熱烈の至情が感得されるのである。
明治三年 (1870) 妻の紅蘭が京都府の命に応じて、
「故梁川星巌の事跡」 と題する一文を草した中に、 「天保十二年 (1841) の頃阿片始末を読み先見する所あり、詩十五首を作りて意を寓し、憂国の餘、窃かに人心の委靡を振起し、予め之が所置あらんことを警示す。当時徳川氏、政を失ひ、偸安苟且に流れ、成すなきを憤り、同志の者と密議し、華を尊び夷を卑しむの説を唱へ、国体を維持するの志ありたり」 とある 。 その志士となった因由と行実をよく物語っている。
しかし星巌の本色は詩人たるにあって、その志士となったのは時勢であった。明治の詩壇はその門弟達によって衣鉢を伝えている感がある。ただ明治中興の世となって、星巌の国士的風格は、もはや門人には見られなくなっている。

『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ