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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/08/10 (金) 藤田 東湖

ふじ たけき (とう )
藤田 彪 (1806〜1855) 字は斌卿、通称虎之助、後に君命によって誠之進と改めた。東湖はその号。
先祖は参議小野篁 (タカムラ) から出ているという。
父の幽谷 (名は一正、字は子定) は藤田与右衛門という古着屋の子に生まれながら、立原翠軒の門人となり、十五歳で彰考館出仕を命ぜられ、後には総裁に進み、禄二百石を食んだ。
人となり厳正、憂国の念が厚かった。
東湖はその一人息子である。母は丹梅子。
文化三年三月十六日、水戸上市梅香に生まれた。
八年 (六歳) 、堀川潜蔵 (名は清、字は文淵) の門に学び、文政二年 (1819) 、十四歳、父に従って江戸に出て、亀田鵬斎・太田錦城らに会ってその名を知られた。
また無念流の剣客岡田十松 (1765〜1820) の撃剣館に学び、二十歳ごろまでは武術に熱中した。やがて国に帰った。
七年 (十九歳) 、イギリスの軍艦が常陸の北辺大津村に到り、兵士が騒擾した。幕府は漂流の例によって事を穏健に処理しようとしたが、幽谷は東湖を招き、 「外夷の傲慢無礼は許し難い。汝はこれから大津に赴いて、もし幕議が放還させるようならば、直ちに夷を鏖殺し、従容官に就いて裁断を請え。一時の策とはいえ、これによって神州の正気を伸べることができよう。われには汝一男あるのみだが、汝が死すればおれも満足、これ我と汝と命窮まるの時なるが故だ」 と命じた。
東湖は慨然死を決して、之に赴かんとしたので、幽谷も 「さすがわが児じゃ」 と喜んだ。
身支度をして別れの杯を酌み交わしているところへ、英艦はすでに去ったと知らせるものがあって、これは遂に果たさなかった。
九年、また江戸に上り、伊能一雲斎について十字の槍法を学んだ。そしてやがて免許皆伝の腕前となる。剣術も岡田門下の斎藤弥九朗と互角であったという。
一日、幽谷が、 「力はあっても牛馬は遂に飼われて人役となる。汝がついに人役たるに甘んずるならば言うこともない。いやしくも道を天下に明らかにしようと欲する者は、学を修めなくてはかなうまい」 と諭した。
東湖はこれにより発憤して書を読み、晋の劉淵の、 「吾、書伝を観る毎に、つねに随陸の武なく、?灌の文なきを鄙しむ」 の言を得て、ますます砥礪し、出でては槍を弄し剣を撃ち、入りては書を読み文を作り、一日もその業を怠らず、文武の全才となった。
九年十二月、父幽谷逝き。十年正月、家督を継ぎ、二百石を賜り、進物番となり、彰考館の編修を兼ねた。
そのころ史館は水戸の外に江戸小石川の藩邸内にもあって、江戸の方の総裁は青山延光であった。水戸の方は幽谷亡き後、総裁を置かず、大竹親従・会沢安に兼摂させていた。東湖は出仕二年、二十四歳の時、早くも史館総裁代役を命ぜられた。
彼は役目とはいえ、先輩や老学究の上に立って采配をふるうことは非常に心苦しく、辞退の決意をしたが、尋常の手段では望みを達することが出来ないので、役目からも永年史館の積弊を一新したいと思い、改革に関する五箇条の意見を草し、まず青山総裁におくった。
その一に 「心術正しからざるものは館職に居るべからず」 として川口長孺 (緑野) の敗徳汚行をあげてこれを弾劾し、その三に 「職を摂するの撰は彪に在るべからず」 とし、その五に 「虚文粉飾助長すべからず」 と述べ、堂々たる文章千言、さすが幽谷の子だと評判された。
更に書を青山に送り、堅く辞職を求めた。しかし建白書の趣旨は入れられず、僭越の譏りを以って、謹慎を命ぜられただけで、目的を達することは出来なかった。
たまたま藩主鳴斉修 (哀公) の病篤く、後継未だ定まらず、当路の間にも異論があって、将軍家斉の庶子清水公を迎えようとする者があり、斉修の弟敬三郎を擁立しようとする者があった。
東湖は英明の誉高い敬三郎を擁立するため、同志杉山忠亮・山野辺兵庫・川瀬教コ・会沢安・武田勝・吉成信貞・鈴木宣尊らと約し、直ちに江戸に上り、斉修の薨去を聞き、支藩守山候について尽力を依頼した。
しかし斉修の遺書が発見されて敬三郎襲封のことが記されていたことと、元老中山備州及びこれら同志の運動も功を奏して、幕府の允許も得られ、十月十七日、敬三郎の襲封が決定した。この敬三郎が名君といわれた九代藩主烈公斉昭その人である。
東湖らは望みを達して感泣し、十一月には水戸に帰ったが、無断国境を脱出した罪によって、天保元年 (1830) 正月に逼塞謹慎を命ぜられた。 しかし、これは間もなく許された。
斉昭が一たび藩主となると、意を民治に用い、まず人材を登用して士風の刷新を行った。
従来の門閥や家柄にとらわれることなく人物本意によった。
四月、領内七郡の奉行を更迭し、東湖は八田郡の郡奉行に任ぜられた。
翌年郡制を改め、太田郡を治めた。東湖は日々老吏と民政の得失を研究し、その救荒の謀の備わらぬのを見て、当路に建議し、常平倉を設けて米価の急騰・暴落にそなえ、常に郡内を巡行して仁政を事とした。
天保の大飢饉にも水戸では一人の餓死者も出さなかったことは、こうした事が役立ったのである。
五月、郡奉行から江戸邸通事に転じ、六年六月、御用調役に任じ、政令及び任免の事を掌った。
このころ保守派の中には改革を喜ばず、妨害を図る者もあったが、十年、斉昭は断然これらの保守派を斥け、弘道館を設けて文教を興し、武備を充実し、農政に力を注ぎ、寺社を統制し、淫祠邪教を弾圧して、一藩の風俗を改めた。いわゆる天保の改革である。東湖がその枢機に参画し、献替する所が多かったことはいうまでもない。
十一年、東湖は側用人となり、十四年正月には格式馬廻り上座に進んだ。
時に北境にしばしば外国船の警報があり、斉昭は蝦夷地を開拓し、且つ北門を警備しようとし、老中浜松侯に相談したり、東湖と謀って藩士を鼓舞し、その是非得失を論議させた。
斉昭の東湖に対する信頼はいよいよ厚く、入っては機密に参預し、出でては四方に応待した。
東湖は人となり闊達、議論風生、事に渋滞無く、才を愛し衆を容れ、時々延接して酣暢談論し、或いは詞賦唱酬したので、当時、海内の士、人材を論ずる者は必ず指を東湖に屈し、声名天下に震うた。
これを憎んだのは保守派で、斉昭が東湖を信用している限り、自分らの主張は容れられない、ならば斉昭を失脚させて新しい藩主を立て、その実権を握る外はないと考えるようになった。
たまたま淫祠邪教征伐によって追放された僧侶達は、増上寺・寛永寺・吉祥院などを動かし、幕府の大奥に取り入り、しきりに斉昭を讒誣した。保守派もこれに呼応して、 「斉昭が武器兵糧を蓄えるのは幕府に対する陰謀からである」 と密告した。幕府でも斉昭が尊皇攘夷の思想を鼓舞することに当惑していた折でもあり、弘化元年 (1844) 五月六日、斉昭を江戸に召還し、異心を懐き禍心を蔵するものとして、隠退を明治、世子鶴千代 (慶篤、十三歳) に襲封させ、斉昭を駒込の別邸に幽閉した。
東湖は病気臥床中であったが、死を賭して扈従し、彼も小石川邸内に幽囚の身となった。これによって正義派はいずれも冤罪を蒙り、佐幕派が代わって勢力を挽回した。
斉昭はその年の暮れに罪を解かれたが、東湖は職を奪われ、水戸梅香の第宅も没収され、翌年二月、小梅村 (今の墨田公園) にあった水戸藩下屋敷に拘禁された。
東湖は小石川の藩邸内に幽閉された時、半生の自叙伝ともいうべき回天詩史を書き、東湖随筆を書いた。小梅に移ってからは一層悲惨な生活の中に正気の歌や常陸帯を作った。
三年十二月、蟄居を命ぜられ、翌年正月、水戸竹隅に移ったが、なお二年間は謹慎を命ぜられた。この間に成ったのが弘道館記述義である。ついで新故の往来するを許されるや、遠近の教えを乞う者、毎日来たって時務を相談し、文事を問うた。
こうしているうちに、天下の形勢は東湖らの予想した通りの事実となってあらわれた。即ち寛永六年 (1853) 六月三日、ペリーが米国軍艦四隻を率いて浦賀に来て、開港を迫り、七月十八日、露国使節プチャーンも軍艦四隻を率いて長崎に来るという有様、国内は鼎の沸くが如き状態となった。
幕府は斉昭を起用して幕政に参与させ、防海の策を確立し、天下の輿論を指導させようとし、東湖も赦されて現職に復し、大いに国事に伸べることになった。
かくして、しばしば策を幕府に建じ、事は遂に叡聞に達し、天下その風采を想望した。
この頃が東湖の最も得意な次代であった。東湖は早くから王政の回復をはかり、夷狄の猖獗を憤り、士風の懦弱をなげいて、正気を振起しようと考えていた。
このころ藩主慶篤はその誠心に感じ、自ら誠之進の三大字を書してこれに与え、その通称に代えさせた。
ついで学政を総督させたが、安政二年十月二日、江戸の大地震にあい、母を救い出そうとして梁の下敷きとなり圧死した。享年五十。天下誰一人その死を惜しまぬ者はなかった。
藩主も痛く悼惜し、命じて郷里に帰葬させ、水戸城南常陸原先塋に葬った。
著わす所の書十数種、東湖遺文一巻・東湖詩鈔二巻・謫居詩存二巻などがあり、ほぼ東湖全集一冊に収められている。
東湖は天資英邁、容貌魁偉、眼光炯々として人を射、威厳自らそなわっていたが、人柄は灑々落々、飄逸な面もあって、頗る魅力ある人として一般に敬愛された。
嘗て斉昭の和歌の題 「大嫌ひ」 を賦して、 「大嫌ひ仏坊主に薩摩芋、怠ける人に利口ぶる人」 とうたった。いかにもその面目がよくあらわれている。
西郷南洲はしばしばその門を叩き教えを受け、東湖もこれを許すに大器を以ってした。
嘗てその請により陳龍川の 「推倒一世智勇。開拓万古心胸」 を書し与えた。これは後に南洲も好んで人のために書いた文句である。
東湖は終生大義を明らかにし、人心を正すを以って己の任とし、敬神振武を政教の基本とした。
「稽古徴今、発明神聖大道。尚武石文、鼓舞天地正気」 はその座右銘であると共に、まさにその実践者であった。徳富蘇峯翁は 「水戸学の権化」 と評している。
東湖の詩文は皆感慨の餘に出で、純誠の至情と正大の気迫が全篇にみなぎっており、詞彩煥発して、よく人を感憤興起させるものがある。
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ