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日 本 漢 詩
『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ

2007/08/10 (金) 泉 岳 寺

せん がく
さか くぁ ( ざん )

さん がく くづうみ ひるがえ

しょう せず じゅう しち しんこん

ふん ぜん 滿まん そう たい うるお

ことごとこう じん りゅう ていあと
山嶽可崩海可飜

不消四十七臣魂

墳前滿地草苔濕

盡是後人流涕痕
語 釈

○崩==山のくずれること。
○飜==ひっくりかえす。
○不消==消してなくすことが出来ない。
○墳==墓。つか。
○滿地==あたり一面。
○草苔==くさやこけ。
○盡是==全部〜〜である。
○流涕==流した涙。

通 釈
(平声元韻) 永久不変と思われている山も崩すことが出来よう、海もひっくり返すことが出来よう。 天地異変ということが有る。 だが四十七士の魂を消滅させることは出来まい。
今も泉岳寺の墓前にぬかずけば、あたりの草や苔がしっとりと濡れている。これすべて後人感激の涙の痕なのである。
題 意

泉岳寺は東京芝高輪 (今は港区高輪二丁目) にある曹洞宗の名利。山号は万松山。赤穂義士の墓がある。
詩は泉岳寺に詣で、義士の忠魂を弔ったものである。
元禄十四年 (1701) 三月、浅野内匠頭長矩が江戸城中で吉良上野介義央に刃傷し、切腹を命ぜられたのがもとで、家臣大石内蔵助良雄ら同志四十七人が苦心の末、翌十五年十二月十四日、吉良邸に討ち入り、主君の讐を報じた。
十六年二月二日、幕府は良雄以下四十六人に切腹を命じ、遺骸は泉岳寺浅野長矩の墓畔に葬った。
義士の一人寺坂吉右衛門は、復讐の後、泉岳寺に引き揚げる途中、良雄に命ぜられて本藩安芸に使いに行った為に、死を免れた。

余 説

四十七士の討ち入りが義挙であるかどうか、当時から議論があった。林鳳岡・室鳩巣らは義挙とし、荻生徂徠・太宰春台・佐藤直方らは反対の立場をとった。 幕府は柳沢吉保が徂徠の意見をもとに、切腹を命じた。
事件後四年目に近松門左衛門が碁盤太平記を書いて上演し、さらに四十二年の後、寛延元年 (1748) 、竹田出雲が 「仮名手本忠臣蔵」 を書いて上演した。
仮名手本は、四十七士が襟に 「いろは」 を書いていたから、四十七字、手本は習字の手本と武士の鑑の意を兼ねさせた。さらに、いろは歌の中に 「とがなくてしす」 の文字を見出して、しかもあらわに言わず、幕府の処置に対する不満抵抗の意を寓して、仮名手本と名付けたのであった。
庶民の感情としては四十七士は絶対に義士であり、忠臣蔵が今に至るまで熱狂的な支持があるの所以でもある。
太宰春台の意見は
「吉良が浅野内匠頭を殺したのではない。怨むとすれば寧ろ幕府だ。赤穂の城受け取りに一戦も交えず、身分ある将軍の臣を殺した以上、死刑は当然なのに、泉岳寺で自刃もしない。大義に名を借りて私欲を満たそうとするものだ」 という、いわば騒擾罪とみた。
徂徠の所論は春台とは異なる。
「動機は同情に値するが、国法は枉げられない。死刑を覚悟でやった事であり、且つ死を命ずることによって国民の同情は一層高まる。永久にその壮挙が記憶されるならば、一時の生を得るより、死後の名を得る方が寧ろ幸福であろう」 というにあった。

『日本漢詩 新釈漢文大系』 著・猪口 篤志 発行所・明治書院 ヨ リ