〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/19 (土) 空 蝉 (三)

碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめくここちして、人々あかるるけはひなどすなり。
「若君はいづくにおはしますらむ。この御格子はさしてむ」 とて鳴らすなり。
「しづまりぬなり。入りて、さらばたばかれ」 とのたまふ。
この子も、おもうとの御心は、たわむるところなくまめだちたれば、言ひあはせむかたなくて、人少なならむをりに入れたてまつらむ、と思ふなりけり。
「紀伊の守の妹もこなたにあるか。われにかいま見させよ」 とのたまへど、
「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべる」 と聞こゆ。
さかし、されどもと、をかしくおぼせど、見つとは知らせじ、いとほし、とおぼして、夜ふくることのこころもとなさをのたまふ。
こたみは妻戸をたたきて入る。皆人々寝にけり。
「この障子口にまろは寝たらむ。風吹きとほせ」 とて、畳ひろげて臥す。
御達 (ゴタチ) 、東の廂 (ヒサシ) にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童べもそなたに入りて臥しぬれば、とばり空寝 (ソラネ) して、火明かきかたに屏風をほろげて、影はほのかなるに、やをら入れたてまつる。
いかにぞ、をこがましきこともこそ、とおぼすに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の、帷引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆しづまれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。
女は、さこそさ忘れたまふを、うれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るるをりなきころにて、心解けたる寝 (イ) だに寝 (ネ) られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚 (ネザメ) がちなれば、春ならぬこにめも、いとかいなく嘆かしきに、碁打ちつる君、今宵はこなたと、いまめかしくうちかたらひて、寝にけり。 若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。
かかるけはひの、いとかうばしくうちにほふに、顔をもたげたるに、一重 (ヒトエ) うちかけたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるし。
あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やおら起き出でて、生絹 (スズシ) なる単 (ヒトエ) を一つ着て、すべり出でにけり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)
女たちは碁を打ち終えたのでしょう。急に内にさざめく気配がして、人々が立ち去っていく様子です。
「若君はどこにいらっしゃるのかしら。この格子はもう閉めてしまいましょう」
よ声がして、戸をがたびし閉める音がします。源氏の君は、
「寝静まったようだな、さ、入って、何とかうまく手引きしておくれ」
とおせかせになります。小君は姉が手のつけられないほど生真面目で、もの堅いのを知っていますので、話をつける手だてなどはなく、姉のまわりに人がいなくなったら、源氏の君をこっそりお入れしようと思っているのでした。
「紀伊の守の妹もこちらにいるのかね、その女もわたしに覗き見させておくれ」
とおっしゃいますが、
「とてもそんなことは。格子の内側に、また几帳が添えてたててありますもの」
と小君は申し上げます。
たしかにその通りだろう。ところが、こちらはもうとっくに見てしまっているのだからと、源氏の君は内心おかしくてなりませんけれど、小君にはそれは云うまい。可愛そうだからとお思いになって、
「早く夜が更けないものか、待ち遠しいね」 とばかりおっしゃいます。
今度は、小君は妻戸をわざと叩いて開けさせて内へ入りました。人々はみんなもう寝静まっています。
「この襖口にぼくは寝よう。涼しい風よ、ここを吹いて通れ」
と言いながら、自分で薄縁 (ウスベリ) をしいて横になりました。
女房たちは、東の廂 (ヒサシ) の間に大勢寝ているようです。小君のために戸を開けてくれた女童 (メノワラワ) もそっちへ行って寝たので、小君はしばらく空寝をした後、灯の明るい方へ屏風をひろげて立てまわし、薄暗くしたその中に、そっと源氏の君をお引き入れしたのでした。
「どうなることか、今にみっともない恥じをかくような目にあうのではないだろうか」
よ源氏の君は不安になってひどく気おくれなさいますが、小君の導くままに、母屋の几帳の帷子を引き上げて、そうっと、ずいぶん注意深くお入りになろうとなさいます。
あたりがしんと寝静まっていますので、源氏の君の柔らかなお召物が、かえってありありと衣ずれの音をたてるのが聞きつけられるのでした。
女は源氏の君があれ以来、すっかり自分のことをお忘れになられたようなのを、内心よかったと、つとめて思おうとしているのですが、なぜかあの妖しい夢を見ていたような一夜のことが、今も心から片時も離れることがなくなつかしくて、眠られぬ夜がつづいていたのでした。
昼は物思いにぼんやりと沈みこみ、夜は夜で安らかに眠ることも出来ません。
<夜は覚め 昼はながめに 暮れされて 春はこのめぞ いとなかりける> と古歌のあるように、今は春でもない夏だというのに、 「木の芽」 ならぬ 「この目」 も休まる時もないと、いっそう物思いに沈みこみ嘆いているのでした。
碁を打っていた継娘は、
「今夜はこちらで寝ませていただくわ」
と、今時の娘らしくこだわらず、陽気に話しかけながら、継母のかたわらに寝てしまいました。
若い娘は無邪気で、たちまち、ぐっすり寝入ってしまったようです。
そこへ人の忍び入ってくる気配がして、芳しい香の匂いが息苦しいほどに漂ってきました。覚えのあるその薫に、女ははっと顔をあげました。単衣の帷子が引きあげられている几帳の隙間に、暗いけれど誰かがそろそろと、身じろぎしながらにじり寄って来る気配がありありとわかります。呆れ果てて、とっさの分別もつかないまま、女はそっと身を起こすと、薄い生絹の単衣一枚をはおって、寝間からすべり出してしまいました。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ