作者は紫式部一人ではなく、複数かも知れないという説もあるのは、これだけの大華麗な傑作が、到底一女性の手では書けるはずがなかろうという、男性研究者の想像と仮説から出たもので、根拠はない。
作者の創作日記というものが残されていないので、紫式部一人の作とは、歴史的証明は出来ないものの、今に至るまで、複数説を納得させる証拠も現れていない。
紫式部は 「源氏物語」 の他に、自選と思われる自作の歌を集めた家集 「紫式部」 と、随筆風の
「紫式部日記」 を残している。この二つは、彼女個人の作に間違いない。
「紫式部日記」 の中には 「源氏物語」 の名も度々現れているし、寛弘五年 (1008) 十一月一日の条に、藤原公任が、式部の控えている部屋の御簾の隙から
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」 と言って覗いたという話も書きとめてあり、それに対して紫式部は
「源氏に似るべき人も見えたまはぬに」 と思ったと書いている。
これは、紫式部が宮仕えしていた一条天皇の宮廷では、廷臣たちの間でも、 「源氏物語」 が読まれ評判になっていて、少なくとも
「若紫」 の帖まではすでに書かれていて、作者は紫式部と目されていたことが証明されたものである。
また同じ日記の中に、一条天皇が侍女に 「源氏物語」 を読ませてお聞きになり、この人は日本紀を読んでいるに違いない、ほんとうに学才があるようだ」
と、ほめられた話もあり、それを嫉んで同輩の女房たちから 「日本紀の御局」 とあだ名をつけられた話も書き残している。
それらを見合わせても、紫式部作というリアリティはある。
今では、紫式部一人の作という説で落着いている。
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