〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/05 (土) 帚 木 (十九)

「式部が所にぞ、けしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」
と責めらるる。
「下 (シモ) が下のなかには、なでふことか、きこしめし所はべらむ」
と言へど、頭の君、まめやかに 「遲し」 と責めたまへば、何ごとをとり申さむと思ひめぐらすに、
「まだ文章 (モンジヤウ) の生 (シャウ) にはべりし時、かしこき女の例 (タメシ) をなむ見たまへし。
かの馬 (ムマ) の頭 (トウ) の申したまへるやうに、公事 (オオヤケゴト) をも言ひあはせ、私 (ワタクシ) ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむかたもいたり深く、才 (ザエ) の際 (キハ) なまなまの博士 (ハカセ) はづかしく、すべて口あかすべくなむはべらざりし。
それは、ある博士のもとに、学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、主人 (アルジ) のむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、さかづきを持 (モ) て出 (イ) でて、 『わがふたつの途 (ミチ) 歌ふを聴け』 となむ、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚 (ハバカ) りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚 (ネザメ) のかたらひにも、身の才 (ザエ) つき、朝廷 (オホヤケ) につかうまつるべき、道々しきことを教へて、いときよげに、消息文 (セウソコブミ) にも仮名といふもの書きませず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからえまかりえ絶えで、その者を師としてなむ、わづかなる腰折文 (コシオレブミ) 作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才 (ムザイ) の人、なまわろならむふるまひなど見えむに、はづかしくなむ見えはばりし。
まいて君達 (キムダチ) の御ため、はかばかしく、したたかなる御後見は、何かさせたまはむ。
はかなし、くちおしと、かつ見つつも、ただわが心につき、宿世 (スクセ) の引くかたはべるめれば、男しもなむ、仔細なきものははべめる」
と申せば、残りを言はせむとて、
「さてさてをかしける女かな」 とすかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこづきて語りなす。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

頭の中将が藤式部の丞に向かって、
「式部のところには、何かきっと面白い話があるだろう。少しずつでも話しなさい」
と、責めます。
「下々のわたしのところなどに、どうしてお聞かせするようなことがございましょう」
と言うのに、頭の中将はむきになって早く早くと責めるので、式部の丞は、何を話したものかと思いめぐらせていましたが、
「まだわたしが大学の文章 (モンジョウ) の生 (セイ) だったときのことでございます。賢女とはこういうものかという実例を見たことがございます。
あの左馬の頭がおっしゃいましたように、その女は公の勤めの上でのことでも何でも相談でき、私的な世渡りの処世術なども深く心得ておりました。
学才の方も、なまなかの博士などは恥じをかくぐらいで、何につけても、誰にも口を開かせないほど博学なのでした。
それも実は、わたしがある博士のもとへ学問を教えてもらいに通っていました頃、その博士に娘たちが大勢いると聞きまして、わたしがその中の一人にちょっとした機会を捕らえて言い寄ったのでございます。
それを父親の博士に聞きつけられてしまい、固めの盃を持ち出され、<我が二つの途歌ふを聞け> などと、白氏文集 (ハクシモンジュウ) のむつかしい文句などをひき、貧家の博士の娘こそ嫁にはよいなどとほのめかされたのです。
それでもこちらはそれほど深入りもせず、ただ親の心を察しますと、さすがにその女をむげにも扱われずにおりました。
そのうち女が私に惚れこんできて、熱心に世話をするようになり、夫婦の寝物語にも、わたしの学問について論じたり、官吏としての堅苦しい心得などを教え込んでくれます。
手紙なども仮名をまじえず漢字ばかりでたいそうさっぱりと書きます。もっともらしく理路整然と書いた手紙をよこしますので、つい女と別れにくくなり、通いつづけていました。
そのうちその女を師匠にしまして、ちょっとした下手な漢詩や漢文を作ることも習いましたので、今でのその女の恩は忘れてはおりませんが、そうかといって、打ち解けた妻として頼りにするには、わたしのような無学な男は、どうせいつかは不様 なことをしでかすだろうと、いつも気がひけてなりませんでした。
まして御立派なあなた方には、そんなしたたか者のやり手で、世話好きな妻なんか何の必要がございましょう。こんな仲は情けない、残念だと思いながらも、ただなんとなく女が気に入り、これも前世の因縁かも知れないなどと、ずるずるつづいて、別れられないということもありますから、男なんて全く埒のないものでございますよ」
と言いますと、その後を言わせようとして、頭の中将が、
「さてさて面白い女がいるものだな」
と、おだてます。その頭の中将の魂胆は分かりきっていながら、式部の丞はやはり鼻のあたりをうごめかして調子づいて話を続けます。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ