項王の軍、垓下に壁す。
兵少なく食尽く。
漢軍および諸侯の兵、此を囲むこと数重なり。
夜、漢軍の四面楚歌するを聞き、
項王乃ち大いに驚きて曰く。
漢皆巳に楚を得たるか、
是何ぞ楚人の多きやと。
項王即ち夜起ちて帳中に飲す。
美人あり、名は虞。
常に幸せられて従う。
駿馬あり。
名は騅。
常にこれに騎る。
是に於て項王悲歌慷慨し、
自ら詩を為りて曰く。
力は山を抜き、気は世を蓋う。
時に利有らず、騅逝かず。
騅の逝かざるを奈何すべき。
虞や虞や若を奈何せん。
歌うこと数ケツ。美人これに和す。
項王涙数行下る。
左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。

「酔え。」 酔うな、といったことも忘れ、觴のなかを何度も干し、ついにはその巨眼を赤くし、それでもなお付き上げてくる感情に耐えていたが、やがて巨体をわずかに前へ屈め、小さく声を洩らした。 声には抑揚がついている。
楚歌の音律であった。
激しく、かつ哀しい。
力は山を抜き、
気は世を蓋ふ
時に利有らずして
と歌ったあと、拍っているひざの手をとめ、不意に床をみつめた。
やがて、
騅逝かず
と歌った。
脳裏に敵の重囲が浮かび、手も足も出なくなっている自分の姿が、雷光に射照らされるように映じたのにちがいない。
項羽の目にふたたび涙が噴きだし、そのままふりかえって背後の虞姫を引きよせ、
騅の逝かざるを奈何すべき
虞や虞や若を奈何せん
と、うたいおさめた。
力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何
兮 という間投詞が、ことばが切れるごとに入っている。
兮は詩の気分に軽みをつける間投詞ではないく、むしろ作り手の項羽が、兮!と発声するごとに激情が一気に堰きとめられ、次いでつぎの句の感情にむかっていっそう発揚する効果をもっている。
項羽のこの場合の兮は、項羽のこの時の感情の激しさをあらわしているだけでなく、最後に虞姫に対し、その名を呼ぶことにいちいち兮を投入したのは、この詩が要するに、虞姫よこの項羽の悲運などどうでもよい、この世にお前を残すことだけが恨みだ、というただそれだけのことをこの詩によって言いたかったにちがいない。
左右みな泣き、能く仰ぎ視るもの莫し、という。
左右は、項羽が楚軍と自分自身の悲運をはげしく慷慨したこととしてみな共感したと言えるが、
「虞兮虞兮」と称えこれまた虞姫にとっては項羽が鉾を突き入れるようにして、彼女ひとりのために語りかけているとうけとったであろう。
つまりは、死んでもらいたいということであった。
このあと、敵の重囲を突破するにあたって虞姫をともなうことの不可能さは彼女自身もわかっている。
項羽そのひとの生命もあと幾日のものか、たれにもわからない。
項羽のいのちの炎の激しさは、彼女をこの世に残して余人の手に触れることを戦慄して拒絶しているのである。
そのことは、虞姫の心に了解された。
彼女は項羽の願望と自分のそれとが一つであることを明かす為にすぐさま立ち上がり、剣を取って舞い、舞いつつ項羽の即興詩を繰り返しうたった。
その所作が彼女の返答であることが項羽にわかった。
彼女が舞いおさめると項羽は剣を抜き、一刀で斬りさげ、とどめを刺した。
この男はそのまま帳をはねあげ、下へ下へと降りた。やがて騅にとび騎ると、闇を蹄でけやぶるようにして城門を走り出た。
「項 羽 と 劉 邦」 司馬遼太郎・著 ヨリ