長き恨みの歌物語 (四)

九重の城闕に 煙塵生じ
千乘 萬騎 西南に行く
翠華 搖搖 行きて復た止まる
西のかた都門を出づること百餘里
六軍 発せづ 奈何ともする無し
宛転たる娥眉 馬前にて死す
花鈿 地に委ち 人の収むる無し
翠翹 金雀 玉掻頭
君王 面を俺いて救い得ず
迴看すれば血と涙と相和して流る

宮城の物見台には煙と土埃とが立ちこめ、
あまたの武者に守られて玄宗の一行は
西南めざして落ちのびていった。
天子の御旗はゆらぎつつ、進んでは止まり止まってはまた進んだ。
都の城門から西へ百里ばかり、馬嵬坡にたどりついたとき、
近衛の六軍隊ははたと止まって動こうとせず、
これをどうすることもできなかった。
ここに、ゆるやかな弧をえがく眉をした美しい眸は、
みすみす軍馬の前で亡くなった。
花かんざしは地におちたまま、ひろいあげる人もいない。
かわせみの髪かざりも黄金の髪かざりの孔雀も、玉のこうがいも・・・。
天子は顔をたもとで 俺うばかりで、救けることもできなかった。
あとをふりかえりみれば、
血と涙とが共に目からほとばしりおちるのである。


緑山の迅速な挙兵に対し、中央の反応は緩慢をきわめた。謀後、一週間を経過した十一月十五日、やっと閣議がもたれた。高麗人の名将、高仙芝が任命され、ついで一宦官も讒言のためさしたる軍功をあげぬまま、罪を得て斬られた。
そして年を越した十五載六月、潼関の守りが敗れる。守将は「唐詩選」にも収める
    北斗七星高し
    哥舒 夜 刀をぶ
    今に至るも馬を牧わんと窺うえびすも
    敢えて臨トウのまちに過らず
と民謡にまでたたえられた名将、哥舒翰であった。
潼関が陥ちれば長安は危うい。世界最大の百万都市、繁栄を誇った大唐帝国の華も今は火の巷となったのである。
玄宗の一行はとるものもとりあえず都を落ちてゆかねばならなかった。六月十三日未明、地を籠めて天のしのびなくこぬか雨を衝いての脱出である。反乱突発後わずか半年ばかりのちの今日を、一体誰が予見しえたであろうか。
九重の城闕、暴徒の放つ烟塵たちこめる中を、玄宗の一行は西南の方、蜀の地めざしておちていった。楊貴妃、楊国忠の故郷である蜀の国へ。『旧唐書』の「玄宗本紀」によれば、このとき玄宗につきしたがった官吏は千三百人、官女は二十四に人であったという。王維などもこの時、見捨てられた人々の一人である。しかし、玄宗皇帝の乗り物は遅々として進まなかった。
翠華は搖々とゆらぎつつ行きては復た止まりそしてとうとう、
    西のかた都の門を出ること百余里にいたりて
    六軍 発まず 奈何ともするすべ無し
兵士の間に不満が高まっていった。そのうえ、なおまずいことには、一行に加わっていた吐蕃(チベット)の友好使節が、楊国忠に食べ物の供給を直訴しているのを、殺気だった兵士たちに、内通の相談をしているものとみとがめられ、囲まれ殺されてしまったのである。
玄宗は軍士を慰労せんとして杖をついて駅舎の門に出た。軍士は猶も喧しく譁ぎたてた。
「諸君何が望みか。」
高力士を通じて問わせたのに応え、右詐武将軍、陳玄礼がすすみ出て申し上げた。
「陛下、賊の本はまだ活きております。私恩を屈して、法を正したまえ。」
なおも逡巡する玄宗に向かい、数少ない文官の随行者のひとり、宰相葦見素のむすこ葦諤が奏上した。
「今となっては衆の怒りを静めるてあてはありません。速やかに御決断を。」
事ここに至ってはすべはない。玄宗は行宮に入り、貴妃を慰撫し広門の戸口をで、馬道の北の築地のところで貴妃と別れた。妃は言った。
「陛下、ごきげんよろしう、いつまでもお達者に。死ぬ前にどうぞ仏をおがませて下さいませ。」
玄宗は血をはく想いでわずかにこう応えた。
「妃子よ、善地にうまれかわれよ。」
貴妃は皇帝のもとを引き去られ、路傍の仏堂にて、仏を拝したのち、高力士の手によりくびり殺された。
     宛転たる娥眉の人は馬前にて死す
     花鈿は地に委ちしまま人の収むる無し
     翠翹も金雀も玉掻頭も
その直後のことである。貴妃があれほど生前このんでいた茘枝がとどけられたのは。それを見て玄宗ははげしく泣いた。
「力士よ、私にためにのれを霊前に供えてくれい。私は愛する人を救いえなかった。
     君王 面を俺いて救い得ず
     廻り看れば血と涙と相和りて流る
時に貴妃三十八歳。なきがらは陳玄礼らの確認を経た後、紫の茵でくるみ、道の傍らにうずめた。天宝十五載、西暦七百五十六年六月十四日、旱気にみちた豊満な女性の、玄宗皇帝との十二年にわたる、長いような短いようなえにしの終末であった。

第四段は「長恨歌」前半部のクライマックスにあたる部分である。玄宗一行の都落ちとそれにひきつづく貴妃の惨死が本段の骨子となっている。
玄宗の長くつきせぬ恨みはここより始まる。