のちに開元天宝の治とたたえられる玄宗皇帝の帝国はまこと栄えていた。
大唐の春を謳歌する長安の市民たちは、今日も曲江の池畔に遊逸を楽しんでいた。
しかし、肥大した繁栄はみずからの重さをささえきれず、やがてなだれをうって崩壊せねばならない。
そんな時が迫っていた。表面の繁栄のかげに、衰退がじりじりとしのびよっていたのである。
三十年間の久しきにわたる在位と、その苦労に飽きはてた玄宗皇帝は、絶対権力者のだれもがおちいるように、安逸志向へと傾斜していった。
玄宗の場合には、それは傾国---ひとたび笑めば国を傾け尽くさせる、美女---探求のかたちをとってあらわれた。
玄宗の御宇(あめがしたしろしめすこと)は多年にわたったけれども、かような美女はいまだ手にいれられなかった。
しかし、求める美女は遂にいた。
蜀州の司戸、楊の娘で、成人したばかりゆえ、かつ、屋敷のうち深く育てられたため、他人に知られなかったのである。その人の名は楊玉環。
天より生せし麗しき質は、つつみかくせども自ずとあらわれ棄て難く
一朝、ふとある朝きがついてみると、
選ばれて君主の側らにはべる身となって在った。
一笑百媚にあたる彼女の麗質の前には、六つの宮殿の官女たちの化粧も、ために色あせてみえた。
彼女は一度女道志となり、楊太真と名のってから入内した。
長き恨みの歌、開幕の第一段である。出身のいやしい楊貴妃が、そのたぐいまれな容色によってとりたてられ、玄宗の寵愛をもっぱらにするしだいがえがかれる。長き恨みの種がここにまかれた。
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